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第1回

(ロックダウン日記第1回)ガイジン記者、運転免許更新にいく

 真っ青なカリフォルニアの空に突き刺さるように生えているひょろっとした数本のヤシの木。

 それをぼーっと見上げながら、路上に立ち続けて2時間半がすでに経過していた。水筒に入れてきた水はもう半分しか残っていない。灼熱の太陽が照りつける中、風がそよそよと吹くのだけが唯一の救いだった。

 カリフォルニア州の自動車運転免許センター、通称「DMV」の前にはすでに100人以上の列ができていた。私もその列の中のひとりだ。

「ねえ、あと2時間ぐらいで、私たちの順番くるかな?」。

 私の後ろ2メートルの地面の青いテープが貼られた場所に立っている20代前半ぐらいの女性が私に尋ねた。

「そうだといいね」と私は答えた。

「ねえ、絶対大丈夫だよね、私たち。ここまで待ったんだから、建物の中に入れるよね」と彼女。

「うん、そう信じたいよ」。

 待ち時間の長さでは悪名高いこの免許センター。今日のうちに自分の順番が回ってくるかどうかは、誰にもわからない。

 私は運転免許証の更新期限が目前に迫っていた。後ろの彼女は免許証の住所変更のためだという。

「住所変更の期限はいつ?」と聞くと「実はもうとっくに期限が切れてるんだ。もし路上で警官に停められたらさすがにヤバいと思うから」。


 私が住むカリフォルニア州では、コロナウイルスによる非常事態のために3月19日に自宅待機令が出された。それから100日が経過した。

 同居家族以外の人とは対面で会うことは許されないロックダウン生活が3カ月以上も続いている。 

 学校の授業も銀行の手続も全てオンライン化されたアメリカで、どうしても自分で出頭しなければならないほぼ唯一の場所が、この運転免許センターなのだ。

 取材して記事を書くことが仕事のジャーナリストの私にとって、運転免許証は、命の次に大事なパスポートの次に大切な証明書だ。

 クルマ社会のロサンゼルスでは、車イコール自分の足。クルマなしではどこにも行くことができない。

 自宅待機中の私のミッションは大きく2つだ。

1.生き延びること

2.1000年に1度とも言えるこのパンデミックで激動するアメリカの素顔を徹底的に取材して伝えること。

 ロックダウン中は対面で人と会って取材することが難しい。電話取材が圧倒的に増えたが、それでも外でちょっとでも取材したり撮影したい。

 私が今後、仕事を続けるためにどうしても必須なもの、それが有効な運転免許証なのだ。

 マスクを着用して砂漠気候のLAの太陽の下で立っていると、ヒトは何時間で熱中症になるでしょう?ーーそんな科学実験の被験者になった気分だった。

 待ち時間が3時間に近づいた頃、列の中で、倒れる人がポツポツと出てきた。

 耐えきれずに地面に横になる男性。ついに諦めて、フラフラと列を離れる女性もいた。

「ちょっとマム!落としましたよ」と誰かが叫ぶ。地面の上にはえんじ色のパスポートが転がっていた。

「ああ・・・」。気力を振り絞ってその女性はパスポートを拾い、ヨロヨロと駐車場の方向に歩いて去って行った。

 すでにここまで待ったのだ。今後何があろうと諦めることなどできない。もし期限が切れた免許証で運転して、運悪く警察官に停められたら、違反切符を切られ、巨額の罰金を取られてしまう。それだけは嫌だ。

 暑さと疲れで次々に脱落していく人たちの中に黒人男性はひとりもいなかった。彼らはどんなに汗が噴き出ようと、辛抱強く列に残っていた。もし黒人男性が期限切れの免許証で運転し、警察に見つかったら、命すら危ないのがこの国だからだ。

 ヤシの木の幹から葉と一緒に生えている黄色いモール状のひげみたいなものが、真っ青な空にゆらゆらと揺れるのを眺めながら、更新手続で聞かれる質問を再度チェックした。

「あなたはアメリカ市民ですか?答えを以下から選んで下さい。YES、NO、答えたくない」。

 これにどう答えようか、私は1時間以上迷っていた。

 私は日本国籍を持つ日本人で、アメリカ市民ではない。つまり何も考えずにNOと答えればいいのだろうが、コトはそう単純ではない。

 トランプ政権は、国勢調査の用紙に「あなたはアメリカ市民ですか?」という質問を入れたくてたまらなかったのだが、それはすでに却下されていた。

 するとトランプ政権は、各州で登録されている運転免許証の個人情報を吸い上げて、一体誰が市民なのか、そうでないのかを把握しようと動きはじめた。

 ズバリ目的は、投票権のない違法移民が大統領選に投票するかもしれないリスクを防ぐためだ。

「違法移民を排除するためにメキシコ国境に壁を作る」と公約して当選したトランプ大統領らしい動きだ。

 一方、違法移民にも免許証を発行しているカリフォルニア州は、YESとNOの他に「答えたくない」の選択肢も用意して、個人のプライバシー保護を打ち出すことにした。

 それなら、合法滞在の外国人の場合は、NOと答えれば何も問題はなさそうだが、コロナの非常事態宣言下では「答えたくない」を選ぶメリットも、実はあるのだ。

 アメリカではコロナによる失業者がすでに4800万人を超えた。

 これは日本の人口の約4割が仕事を失った計算になる。

 すかさずトランプ大統領は、米国で外国人が合法的に働ける複数のビザの発効を一時的に停止すると宣言した。アメリカ人の仕事を確保するのが最優先というのがその理由だ。

 そんな「アメリカファースト」極まれりのこのご時世に、NOと回答するということは、自分はガイジンだと改めて宣言することだ。それがどれだけのリスクがあることなのか、予想できないだけに怖いのだ。

 もしある日突然トランプ大統領が「コロナ陽性の外国人はこの国から出て行け」と宣言したら?もし、ある日、自分が陽性になってしまったら?

 しかし「答えたくない」を選べば「コイツは不法移民かもしれないぞ」という疑念を政府に抱かせ、痛くもない腹をさぐられかねない。

 かつて東京の新聞社系の出版社で社員記者として働いていた私は、終身雇用と日本の年金を捨てて、この国に単身で渡ってきた。

 ガイジン記者として、今後も自分がこの国で取材を続けるのに最も安全な回答は何なのか。

 迷いに迷った末、結局、NOを選んでマルをつけた。

 マスクの中で深呼吸すると、かけていた眼鏡が真っ白に曇った。


「御社の募集要綱を見て電話しています。電話で面接してくれませんか?今でもいいですよ。十分時間ありますから」。

 そんな男性の声が列の後ろから聞こえてきた。彼以外にも「履歴書は見てもらえましたか?はい、今失業中なので、いつからでもスタートできます」などと携帯に向かって大声で話す老若男女が列の中に何人かいた。

 4800万人が失業しているということは、こういうことなんだ。

 アフターコロナだのニューノーマルなどのお題目はここにはない。

 今日と明日のパンをどうやってゲットするか、来月の家賃をどうやって払うか。それだけが多くの人の関心事だった。

「大型免許はいりますか?YES、NO」。そんな更新用紙の質問が目に入った。

 いつもなら即NOにマルをするのだが、今回は一瞬指が止まった。

 大型トラックの運転の仕方はミシガン州に住んでいたころ、友人から何度か教えてもらった。車がすっぽり埋まるほどの豪雪地帯では大型トラックが必需品だったからだ。

 もし今回の更新時に、追加で大型免許も取れば、いざとなればアマゾンなどの輸送の仕事ができる。トラックで物資を運ぶ仕事なら、感染の危険も少ないはずだ。とっさにそう考えた。

 コロナ禍で臨時休刊になった媒体がいくつかあるし、取材するはずだったイベントの多くはすでに中止になっていた。日本の新聞社のLA駐在員のように大企業の後ろ盾のないフリーランスのジャーナリストの自分にとって、確実に稼げるスキルはひとつだって多い方がいいのだ。

 夜中に銀行残高をチェックして、心配で眠れなくなるぐらいなら、大型免許を取るべきじゃないのか。

 そう迷っていると、列に並んでいる私たちの後ろで、普通車の技能試験が始まった。

 受験者がすでに乗車して待っている車に向かって歩いてきたのは、まるで宇宙服のような防護服を着てフェイスシールドをした試験官だった。手にはビニールでできたシートを2枚持っている。

 その透明なシートを運転席と助手席の間の空間に上手に貼っていく。まるで透明の結界を作るように。

 運転席に座っているのは16歳ぐらいの男性だ。

 防護服の試験官が大きな身体を折りたたむようにしてビニールまみれの助手席に乗り込むと、エンジン音がして車が前に進んだ。

 私たちのすぐ横を通り、車は誰もいないからっぽのユニバーサル・ミュージック本社の社屋のつきあたりを右に曲がって、海の方角に向かってゆっくり走り始めた。

 ゴーストタウンと化したこの街で、運転免許を今日、人生で初めて手にするだろう若者がいる。

 そう思うと、ちょっと嬉しくなった。

 列に並んで4時間が経った頃、「はい、皆さん、今日はもうここで受付締めきりです。帰って明日、朝一番でまた並びなさい」という職員の声がした。

 熱中症寸前の私たちには、悪態をつく元気すら残っていなかった。

 翌朝8時に並び、何とか免許センターの中に入れた。

 写真撮影のとき、フェイスシールドをした黒人女性の職員に「マスクを取って、白線の外側に立って」と言われた。

 指示通りにしていると、彼女は「笑ってもいいんですよ」と言った。

 笑う?

 一瞬何のことだかわからなかった。ああ、そうか、彼女の横にあるカメラに向かって笑顔になってもいいってことか、と気づいた。

 マスクをせずに初対面の誰かに向かって笑ったのは、3カ月ぶりだった。


Profile

長野美穂

ジャーナリスト。東京の出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社ペトスキー・ニューズ・レビューでインターン記者として働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞した。その後独立し、ネイティブ・アメリカンの取材などに没頭。ボストン大学大学院を経て、イリノイ州のノースウェスタン大大学院でジャーナリズム修士号を取得。カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社インベスターズ・ビジネス・デイリーに入社し、約5年間、自動車業界・バイオテクノロジー・製薬・銀行などを担当する経済記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動している。テニス、カヤック、サッカーなどアウトドアスポーツが趣味。

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