「各教科にはそれぞれ教科教育学という学問があります。社会科なら社会科教育学というものがあるんですが、道徳にはありません。アカデミックなプロパーがいないんです」
にこやかに解説してくれたのは麗澤大学大学院学校教育研究科准教授の富岡栄さんである。どうやら「道徳」は学問として体系化されていないらしい。教科にはなったものの、大学で道徳の専門教育を受けた先生はいないのだ。ちなみに富岡先生は「中学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編」(文部科学省 平成27年)の作成協力者の一人。公立中学校の教諭、管理職を定年までつとめてこられたのだが、もともとは大学の物理学科卒業。中学校で教えていたのも理科と数学なのである。
――それで道徳を?
思わず私はつぶやいた。道徳はどちらかというと文系ではないだろうか。
「高校生の頃からプラトンやカントが好きだったんです。物理学を専攻しましたが、物理学を追究すると哲学に行き着きます」
――哲学なんですか?
「例えば万有引力ってありますよね。質量のある物と物が引き合う。なんで引き合うのか。実はよくわからないんです。この『なんで?』『なぜだろう?』という疑問が、道徳に通じているんです」
聞けば、各小中学校に道徳専門の先生はいないが、先生の中から「道徳教育推進教師」が選ばれる。その中で多いのが数学の先生らしいのだ。
道徳は理科系。物理学を生み出した西洋哲学に連なっているのだろうか。
――しかし、「道徳」はもともと中国の思想ですよね。
念のため私は確認した。当たり前のことだが、「道徳」という言葉は中国由来。有名な『老子』の正式名は『老子道徳経』であり、「道徳」はそれが起源とされている。日本でも江戸時代に「学問道徳を以て本(もと)と為(し)、見聞を以て用と為(す)」(「語孟字義」/『日本の思想11 伊藤仁斎集』筑摩書房 1970年)と言われたくらいで、道徳は学問の基本とされていた。荻生徂徠によれば、「道」とは古代中国で行なわれていた礼法や音楽、刑罰、政事などの総称。そして「徳」は「得」であり、得るということ。道を実践すれば「人各々道に得る所有るを謂ふ也」(「辨名」/『日本の思想12 荻生徂徠集』筑摩書房 1970年)、つまり「道」が身につくということを意味している。「道徳」とは「道」を得る。理想の生き方をものにすることなのだ。
「中国思想の研究者というのはあまり聞きませんね」
と富岡先生。「そうなんですか」と首を傾げると、彼はこう続けた。
「確かに明治の初年から『修身科』という科目はありました。そこでは『教育勅語』にあるように『父母ニ孝』『夫婦相和シ』『朋友相信シ』などと儒教の思想がちりばめられていました。それらが消えてしまったわけではないんですが、今の『道徳』では『なぜ?』を問うんです」
――なぜ?
「『人に親切にする』『約束を守る』ということも、『なぜ親切にするのか?』『なぜ約束を守るのか?』と考えさせるんです」
――なぜ、なぜ? なんですか?
人に親切にしましょう、約束は守りましょう、でよいではないかと私は思う。
「他の教科、例えば理科でも学ぶ対象は客観的なものですよね。そこには主観を挟み込む余地がないわけです。ところが道徳の場合は、主観が入り込む。主観を教えることになるので、憲法で保障された『思想及び良心の自由』を侵害すると異論を唱える方がたくさんいらっしゃるんです。実際、修身などの教えが戦争に導いたという過去があるので、敏感になるんでしょうね」
実際、『小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』にも「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」と明記されている。価値観を押し付けてはいけないから「なぜ?」になるらしい。私が思うに、「人に親切にする」「約束を守る」は行為であって主観でも価値観でもない。「なぜ?」と問うことで、かえって主観や価値観に踏み込んでしまうのではないだろうか。
「髙橋さんだって道徳の授業は受けているはずですよ」
先生にいきなり問いかけられ、私は「マジっすか」と驚いた。実はすでに昭和33年から小中学校では「道徳の時間」という授業が始まっていた。週に1コマの授業だったそうなのだが、日教組が「修身の復活」などと批判し、多くの学校では「道徳の時間」を利用して席替えや運動会の練習などを行なっていたらしい。私は道徳の授業を受けた記憶がまったくないのだが、席替えや運動会の練習は覚えている。あれは「道徳」をめぐるイデオロギー的な鬩(せめ)ぎ合いだったのか。考えてみれば、運動会の練習などは「価値観の押し付け」以外の何物でもなく、内面の押し付けを避けて外面から押し付けていたのか。
――なぜ? と考えても仕方がないんじゃないでしょうか?
私は先生に質問した。人に親切にすることに理由などあるのだろうか。「なぜ?」と問うことは、そこに理由があるということを前提とするので、問われることで理由があってすることだと強要される。そこで無理に理由を考え出すと「褒められるから」などという利己的な答えを引き出すことになりかねない。大切なのは行為であって理由ではないのだ。
「それは功利主義の考えですね」
――これ、功利主義なんですか。
思わず私は問い返した。「功利主義」が何たるかをよく知らなかったのである。
あらためて調べてみると、功利主義とは19世紀のイギリスで流行した思想。「『最大多数の最大幸福』に近づく行為が正しく、その逆が不善」(『哲学事典』平凡社 1971年)とする考え方で、理由より行為がどんな結果をもたらすかに着目する。ジェレミイ・ベンサムによれば、快楽(幸福)を生む行為が善であり、苦痛(不幸)を生む行為が悪。それを社会全体に広げれば、「最大多数の最大幸福」につながる行為が善となる。彼は「動機が善または悪であるのは、ひたすらその結果によるのである」(「道徳および立法の諸原理序説」/『世界の名著38』中央公論社 昭和42年)と断言していた。功利主義は結果主義。より多くの人によい結果をもたらすことがよいことなのである。
「道徳では功利主義は取り入れていないんです」
さらりと否定する富岡先生。
――なぜ、なんでしょうか?
「大切なのは自分で考えること。自分で考える力をつけることですから」
確かに、功利主義は考えることを後回しにする。ベンサムのように快楽と苦痛の量を計算するようになれば、考える必要もなくなってしまうのだ。
――どう考えればいいんでしょうか?
「道徳では先生が質問ではなく、発問するんです」
――発問?
「質問は答えや正解を求めますが、発問はそれらを求めません。発問とは相手の考えを聞くことなんです」
先生が問いかけることで、生徒に「気づかせる」「自覚を促す」そうなのである。教科書に出ていた「どんな気持ちですか?」というのも発問のひとつ。気持ちを問い質しているのではなく、自発性を呼び覚ますためなのだという。道徳は教えるのではなく、「道徳って何だろうね?」と発問することなのだろうか。
「目指そうとしているのはカントですかね」
富岡先生はそう言ってうなずいた。
――カ、カントですか……。
正直にいえば、カントは読むこと自体が苦痛である。寸分の隙もなく論理を重ねていくようで、『道徳形而上学原論』(篠田英雄訳 岩波文庫 1976年 以下同)も道徳を理詰めで考えていくのだが、私などは冒頭から躓(つまず)いた。
我々の住む世界においてはもとより、およそこの世界のそとでも、無制限に善と
見なされ得るものは、善意志のほかにはまったく考えることができない。
そんなに無制限に力まなくても、とつい思ってしまうのだが、カントによれば、人の人たるゆえんは意志。だから善も意志に決まっているという。あまり意志のない私などは全世界から除外されるのかもしれないが、彼にとっても意志そのものの善性を意志で規定するのは難しいらしく、「道徳性の最高原理」は理性では「理解できない」とのこと。「理解できないものであるということを理解する」そうで、それが「道徳の原理に関して人間理性の限界を究めようとする哲学に対して、公正に要求せられ得るすべてである」という。道徳は理性の理解を超えている。しかし理解できなくても「絶対に善なる意志」には「最高の法則」があるそうで、それは何かというと、
君の格律がいついかなる場合でも同時に法則として普遍性をもち得るような格律に
従って行為せよ
格律とは行為の規則。自分の規則が、いつ誰が見ても正しいとされる規則に従うべきだというのである。規則が規則に従うようで今ひとつわかりにくいのだが、富岡先生によると、この「道徳」を簡潔に定義にしているのは『広辞苑』らしい。
人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間
の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のよ
うな外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。
(『広辞苑 第四版』岩波書店 1991年)
道徳とは「一般に承認されている規範」。法律のように明文化されていないので、自分自身では照合できず、「みんな」の承認に従うことなのだ。
なるほど。
思わず私は膝を打った。SNSでたくさんの「いいね!」を求めるのも、「一般に承認されている」ことを確認するため。ネット上では絶讃の褒め言葉か非難の罵詈雑言が吹き荒れているが、それも承認をめぐる道徳的な行為だったのだ。
「間主観ということなんです」
富岡先生が「道徳」をあらためて解説してくれた。
――間主観?
「主観ではなく、間主観。つまり第一人称の自分の中に第三人称の自分がいる、と考えるんです。第三人称の自分から自分を客観的に見る。道徳性を育てるとはそういうことなんです」
道徳性とは自分を客観視するということ。自分で自分を考えるのだ。例えば「私はうれしい」というのは主観だが、「うれしいと感じる自分」には道徳性がある。「好き」も「好きと思う自分」で、「悔しい」も「悔しがる自分」。教科書で盛んに勧められていた「自分らしさ」もその内容より、それを見る「自分」を育てる方法だったのである。
ちなみにこの「間主観」とは哲学者、エトムント・フッサールが考え出した概念らしい。「主観と主観の間」ということで、物事を人々の間主観的存在としてとらえる。誰にも「自分」があるので、その「自分」と「自分」が重なり合って社会という現象が現われる。自分の考える「自分」も他者の「自分」が織り込まれた間主観であり、そう考えることによって「私の意識が私の意識の内で明らかになる他者の意識をとおして円環的に自分自身へと帰ってくるということになる」(エトムント・フッサール著『間主観性の現象学 その方法』浜渦辰二、山口一郎監訳 ちくま学芸文庫 2012年)そうなのである。
道徳とは間主観、つまり自分の中にいる「自分」、さらにはみんなの「自分」が承認する規範に気がつき、それに従うこと。確かにこうすれば外からの「価値観の押し付け」ではなく、各個人が内面から「主体性」を持って判断していることにはなる。
実にややこしいロジックなのだが、こうした理屈を読みながらふと思い出したのがフィギュアスケートの羽生結弦さんだ。例えば彼はこんなことを言っている。
弱いところが見えて
「自分は
強くなりたい人なんだな」と
あらためてわかった
(羽生結弦著『羽生結弦語録』ぴあ 2015年 以下同)
強くなりたい、ではなく、強くなりたい自分に気がつくのである。それゆえ「自分の弱さが見えたときが好き」なのだそうで、自身を鼓舞する時も「じゃあ羽生結弦としてもっと成長してみろよ!」と言い聞かせるそうだ。勝負についても「勝ちたい」ではなく、こう考える。
自分が勝つか負けるかの
問題ではなく
自分が高みに立とうと
しているのか、いないのかを
すごく重要視しています
勝負は客観的な結果にすぎず、重要なのは高みに立とうとしている自分。それをこう評価したりする。
自分の中で
褒めてあげたいのは
ここまで自分を
奮い立たせて
がんばってこられたこと
自分の中で自分を頑張らせた自分を褒める。頑張る自分と頑張らせた自分を自分が見つめており、自分を見失うほどの間主観ぶりなのである。
彼のコメントはよく読むと、学習指導要領に掲載された「道徳」の内容項目そのものだった。「節度、節制」については「必ずホテルの部屋をきれいにすることを心がけています。部屋の中にあるものひとつひとつを角度を決めてきれいに収める。きっちり整頓する」と抜かりないし、「相互理解、寛容」に関しては「僕は『僕』です。人間はひとりとして同じ人はいない、十人十色です」と多様性への理解を示す。たとえ非難されても「やはり、悔しさを感じますが、そんな意見があるからこそ『やらなければ!』と思います」と受けとめる。まさに学習指導要領にある「寛容の心をもって謙虚に他に学び、自らを高めていくこと」の見本のようなのだ。
学習指導要領には「我が国の伝統と文化の尊重、国を愛する態度」も項目として挙げられているが、それも承知しているようで、ソチ五輪からの帰国会見でこう語っていた。
日本的な文化を忘れないように
したいと思います。
日本語は難しいですよね。
敬語だったり、丁寧語だったり
謙譲語だったり。
そういう言葉にも
表れているように
尊敬する心や
目上の方に対する態度
日本的な文化のすばらしさを
再認識しています。
日本文化を尊重しつつ、さりげなく周囲への気配りも織り込んでいる。「国を愛する態度」についても「(自分が)日本国民として恥ずかしくないかどうか、日本人として胸を張っていられるのかどうか、それが一番大事なのではないかと思います」とのことで「道徳」評価としては百点満点ではないだろうか。「思いやり、感謝」という点でも、彼は「僕ひとりでは何もできない」と両親や地元の人々、さらには「氷にもすごく感謝!」し、ファンに対してはこんなコメント。
好きなスケートを
一生懸命やっているだけなのに
それを支えて
応援してくれる人がいる。
ソチ五輪では
自分の幸せとして金メダルを取り
結果、みなさんの力になれた。
今は、僕の好きなことができるように
応援していただけることが幸せです。
僕のスケート人生で
なくてはならないもの。
これが「応援してくれてありがとう」だと主観になる。主観ゆえに相手に対する御礼になるのだが、彼の場合は間主観なので、好きなスケートをしている自分と好きで応援する人たちの自分が重なって、感謝がしあわされ、「幸せ」となって自分に向けられる。感謝ならぬ間感謝というべきか。考えてみれば、自身の自分と他者の自分を俯瞰できる「自分」は超越的存在として現象するわけで、彼はますます高みに上っていくのだろう。
自分とは何か?
私はあらためて考えさせられた。自身を内省するに、私は幼少の頃から「テキトーな自分」を抱えている。何をやってもいい加減な自分。他者からは呆れられることが常態で、間主観としてもスパイラル状に落ちていくばかりである。ベクトルとしては羽生さんとは逆に向かっているわけだが、これも道徳性のひとつの現われなのだろうか。
髙橋秀実
たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。