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第5回

カチカチなファンタジー

「大切なのは、『決めつけない』ことなんです」
 そう念を押したのは小学校教師の桜井和代さん(仮名)だった。彼女は勤続40年に及ぶベテランの先生。「道徳」についても区の研究推進委員会で教科研究を続けており、いってみれば道徳教育のエキスパートである。
 何事も決めつけてはいけない。
 これは道徳教育の基本らしい。『小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』(平成29年)にも「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」と規定されている。価値観の「押し付け」とは「決めつけ」の指導であり、それは厳禁。生徒たちの「考える道徳」は先生たちの「決めつけない道徳」に導かれるようなのである。
――具体的にはどういうことなんでしょうか?
 私がたずねると、彼女は即答した。
「『こうしなきゃいけない』ではなく、『自分はどうだろう?』『どうしていこうか?』と考させるんです。例えば……」
 そう言って彼女は小学校3年生の教科書を開いた。「まどガラスと魚」(『小学どうとく 生きる力 3』(日本文教出版 平成30年)という教材。「道徳」の個人レッスンを受けるつもりで、私は黙読した(以下、カギカッコは引用)。
 主人公は千一郎という少年。ある日、彼はキャッチボールをしていて近所の家の窓ガラスを割り、思わずその場から逃げ去ってしまう。次の日に家の前を通ると窓ガラスには穴があいたままで、彼は「自分の体にも、ぽかんとあながあいたように思われました」。その翌日に家の前を通ると窓ガラスには「ガラスをわったのはだれだ?」という張り紙。千一郎は「ぼくです」と「口の中でさけびながら」、再び逃げ出す。
 その日の夕方、千一郎の家の台所に猫が侵入し、魚を取っていく。すると近所のお姉さんがやってきて「あのう、おたくで、もしや、ねこに魚をとられませんでしたか」とたずねる。千一郎の母が「ええ、さっきとられましたけど」と答えると、お姉さんは「ていねいにあやまってから、おわびにと、大きなあじのひものを二まいさし出しました」。実はお姉さんは近所の家を一軒一軒聞いて回っていたのだ。千一郎は「あじの大きな目で見つめられたように思い」、翌日には窓ガラスを割ったことを母に打ち明ける。そして母とともに弁償のお金を持ってその家を訪れると、その家のおじいさんは「いや、ガラス代なんかいりませんよ。わたしは、正直な子どもの来るのを楽しみに待っていました」と言って、千一郎のボールを返してくれました……。
 ん?
 思わず私はつぶやいた。美談にも読めるが、最後の「正直な子どもの来るのを楽しみに待っていました」というセリフが気になる。おじいさんが「正直に言ってくれれば、それでいいんですよ」と微笑むなら安心できるが、「ガラスをわったのはだれだ?」と張り紙をするような人が「楽しみに待って」いたとなると、この先、千一郎はいたぶられるのではないかというサスペンスタッチな展開が予想される。さらに不穏なのはこの教材のテーマ。教材の冒頭には「自分に正直に」とある。人に対して正直に、ではなく、自分に対して正直に。物語を読むことで「自分に正直であることについて、考えてみよう」というのだ。
 ん?
 再びつぶやく私。これが「人に対して正直に」というテーマなら考えられそうだが、「自分に正直であることについて考える」とは一体、何を考えるのだろうか。もしかすると「人に対して正直に」とすると「正直にならなきゃいけない」と決めつけることになるのかもしれない。「自分に正直に」と言われると、どう考えればよいのかと考えさせられるわけで、それが狙いなのだろうか。おそらくこれが富岡栄先生(第2回に登場)も言っていた「間主観的」考察なのだ。自分を客観的に見ること。千一郎の物語でいえば、「逃げ出してしまう自分」「告白できない自分」など、様々な「自分」を考える。彼の「自分」と私の「自分」を照らし合わせることで自分を考えることになるのだろうが、実際に様々な自分を考えると、考えるたびに「と考える自分」も生じる。考える自分を考える自分が無限に生じていくわけで、仏教的にいえば「自分」にとらわれた魔境。自分地獄に陥ってしまい、人に対して正直になることを忘れてしまうのではないだろうか。
 などと考え込んでいると桜井先生が発言した。
「私の授業では千一郎の行動に○か△をつけていくんです」
 教科書はあくまで題材。実際の授業はそれぞれの先生が工夫して行なうそうで、彼女の場合は千一郎の行動を一つひとつ検証していくらしい。
――○か×ではないんですか?
「×はありません」
 首を振る桜井先生。
――なぜ、なんでしょうか?
「○か×かと発問すると、多くの生徒が『どちらとも言えない』と答えてしまうからなんです」
 確かに「○か×か」と問うことは「決めつけ」ではある。「○か×か」は判断を強いることになるが、「○か△か」なら判断の保留なのだ。
「『○か△か』なら生徒全員が答えられます。テーマを共有できて、微妙なところも答えられるんです。△と答える子には『どうして△なの?』『なんで○にはならないの?』と訊けるじゃないですか」
 私などからすると、千一郎の行動はすべて△である。なぜなら千一郎も私も優柔不断で不可解だから。そして最後におじいさんから「楽しみに待っていました」と言われ、恐怖を感じたので×をつけたい。下手な正直は災厄を招く、と結論づけたいところだが、そんなことを発言すると先生から叱られるような気がした。
――どうやって生徒たちを評価するんですか?
 あらためて質問すると、桜井先生はうなずいた。
「『道徳』の評価には項目がなく、すべて『所見』なんです。生徒それぞれについて150字前後でまとめる。ウチのクラスは35人いるので35通りの文章を書かなくちゃいけないんです」
――遅刻が多い、とか……。
 子供の頃、私はそう書かれた記憶がある。
「否定的なことは書きません。よいところを見つけるんです。例えば『私語が多い』というのも『時々お友達とお話ししていますね』というふうに。そのためには日々の行動をよく見て、気がついたことはメモしておかないといけない。そうでないと書き分けられません。これが本当に困るんです」
 苦しげな桜井先生。評価にあたっても、「決めつけ」は厳禁なのだ。自分勝手な発言が目立つ子供も「顕著な自発性が見受けられます」などと書くべきなのだろうか。
「運動会だってそうですよ。徒競走で順位を決めると、親から苦情が来たりします。現場で撮った証拠写真を持ってきて、『違うんじゃないか』と。ですから記録係をつとめる先生は気が重くて重くて……」
 先生たちは保護者の写真撮影のために、どの子がどの位置で走るのか、あらかじめお知らせしている。最適なポジションで撮影されているので、クレーム対応に難儀するそうなのである。
「ですから事前に生徒たちを走らせてタイムを取っておく」
――事前に、ですか?
「タイムを取って能力別の徒競走にするんです。速い子は速い子のグループで、遅い子は遅い子のグループで走らせる。ところが子供が家に帰って、『タイムでは2等だったのに、グループ分けで3等になった』と親に言うと、親から『タイムを計り直してください』とクレームが来る。重箱の隅をつつくクレーム。その対応に私たちはどんどん時間を取られてしまうんです」
 決めつけないからつけこまれるのである。ただでさえ彼らは「校務分掌」(校務にかかわる事務作業)に追われているのだという。行事の計画を立てたり、アンケートを実施したり、様々な研修や会議に出席する。活動はすべて文書化、つまりパソコンに入力しなければならない。勤務時間は午前8時15分~午後4時45分とされるが、実際の仕事は午前7時から夜10時近くまで。規定の勤務時間では到底こなせず、授業の準備もままならない。「道徳」の教科化も彼らにとっては負担増だったらしい。
「いじめの防止ということで『道徳』が教科になりましたけど、教科書で上っ面なことを学んでも、いじめ防止にはなりません」
 きっぱり断言する桜井先生。いじめ問題は生活指導で随時対応すべきことで「道徳」で学ぶことではないのだ。確かに教科書(前出『小学どうとく 生きる力 3』)を読むと、「なぜ、いじめをしてしまうのだろう」「どうして、知らないふりをしてしまうのだろう」と考えることになっている。いじめ防止のために考えるらしいが、これでは「いじめをする」ことが前提になっており、「知らないふり」という対処法を教えているかのようである。「いじめをなくすためにはどんなことがたいせつなのか、みんなで話し合ってみましょう」とのことだが、いじめがなければ「なくす」こともできないわけで、むしろいじめが必要になってしまうのではないだろうか。世界から「いじめをなくす」のではなく、個別に「いじめるな」と注意すればよいのだが、おそらくそれも「決めつけ」になるのだろう。どうやら先生たちは「決めつけていけない」という規則に縛られているようで、なぜそうなるのかと考えてはたと気がついた。
 これこそ「道徳的」ではないだろうか。
「道徳」ではなく、「道徳的」。フランスの社会学者、エミール・デュルケームによれば、「道徳的」か否かを判断するにはひとつの「標識」があり、その「標識」とはーー、

広く行きわたった抑止的な制裁、つまりその掟に対するあらゆる違反に対して報復を加える世論の非難
(エミール・デュルケーム著『社会学的方法の規準』菊谷和宏訳 講談社学術文庫 2018年)

 要するに、顰蹙(ひんしゅく)を買うということ。それを破ると顰蹙を買うような掟があることを「道徳的」と呼ぶのである。そもそも欧米の「モラル(moralなど)」は形容詞で、「道徳」ではなく「道徳的な」を意味する。抽象的な「道徳」があって、「道徳的」なことが派生しているのではなく、「道徳的」な行為や事実から「道徳」を想定する。カントも道徳は理性で理解できないと断言していたくらいで、「道徳」自体に実体はなく、実在するのは道徳的な行為や事実なのだ。
 先生たちの「決めつけてはいけない」という規則も、決めつけると保護者や人権派から顰蹙を買うので道徳的な掟だといえる。つまり彼らは「道徳」を教えているというより、「道徳的」に指導しているのだ。ちなみにエミール・デュルケームによると、道徳的行為とは「集合的利益のために振る舞うこと」(『道徳教育論』麻生誠、山村健訳 講談社学術文庫 2010年 以下同)である。個人的な利益ではなく、集団の利益に合うように行動する。強制されるのではなく、そこによろこびを見出すことが道徳的行為であり、その性質についてこう記していた。

道徳的行為と一般に呼ばれているものは、すべて、それがあらかじめ設定された規則に合致しているという共通の性質を有している。道徳的に振る舞うとは、一定の規準に従って行動することであって、この規準は、人がある行為をなそうと決心するまでもなく、すでにそれ以前に、特定の状況においてなすべき行為をあらかじめ決定しているのである。     

 重要なのは「規則性」。集団において、人々は気まぐれではなく、規則に従うことで行動の予測が可能となり、円滑に集団生活を営める。これはちょうど言語に似ている。私たちはたとえ文法を知らなくても、文法という規則に従っており、そのおかげで意思の疎通ができる。道徳も同様で、その「根本機能」は「人間の行為に規則性を与えること」なのである。確かに日課などを定め、規則性を持って生活している人は道徳的な感じがする。時計の針のように「カチカチ」な印象というべきか。いずれにせよ規則性こそが道徳の目印であり、「道徳」を考えることは、その集団に規則性を見出すことなのである。しかし、この規則性は法律のように明文化されていない。違法行為であっても道徳的なことはあるし、合法的な行為でも道徳的に非難を浴びることもある。私たちは集団生活の中で、周囲から顰蹙を買う、顰蹙を買いそうだと感じることで規則性を体得していくのだ。
 あらためて考えてみれば、学校は規則性を教える場所である。時間割も規則だし、各教科の内容も規則性に基づいている。全体的に規則を決めつけているわけで、そこに「決めつけない道徳」が入るのは矛盾している。いや、「決めつけてはいけない」と決めつけているわけで、結局は決めつけているのではないだろうか。

「僕はね、『道徳』はあってもいい、と思うんですよ」
 にっこり微笑みながら答えたのは精神科医の春日武彦さんだった。作家でもある彼には『子どものこころSОS』(グローバル教育出版 2016年 以下同)という著作がある。大人たちに対して、「デリカシーの欠如」を指摘し、「どうしてそこまでみごとに自分の子ども時代の心情を忘れてしまえるのか理解しかねる」と嘆くくらいで、教育行政に批判的な論客なのである。
――あってもいいんですか?
 意外な答えに驚くと、彼はこう続けた。
「だって学校って、もはやファンタジーの世界じゃないですか」
――ファンタジー?
「生徒たちの中には、くるくるパーの子もいれば天才もいる。それを一括して教育できるはずないわけで、それをやっているのは途方もない理想論。ファンタジーですよ」
――『道徳』もそうなんでしょうか?
「『道徳』はたぶん日本全体の心のアリバイでしょう。こういうのもちゃんとやっています、ということで」
 確かに分厚い『学習指導要領解説』はアリバイの証拠書類として読める。あらゆる方面から顰蹙を買わないようにと証拠を固めているようだ。
――しかし子供からすると迷惑な話では……。
 私が言いかけると、彼は遮った。
「子供にとってはファンタジーの練習になるんです。先生たちは真面目なあまり、ファンタジーだということを忘れていますが、子供たちはファンタジーだってことに気がついていますよ」
 そういえば、「道徳」はゲームの「フラグ」に似ていると指摘した子供もいた。
「先生と生徒の関係だって、ひとつのロールプレイングゲームじゃないですか。『道徳』を真に受ける子なんてほとんどいないでしょう。ファンタジーに合わせつつ、『あいつバカじゃないの?』と言える」
――言える?
「例えば、『国語』の音読でも感情を込めて歌を歌うように読む子がいるでしょ。『道徳』でも『前向きに生きることが大切だと思います』とか発言したり。そういう子がいるのを目の当たりにする。お前、そこまでやるか? と思うでしょ。よくもぬけぬけとそういうことが言えるな、とか思うでしょ」
――そ、そうですね……。
「そこで恥知らずに対する免疫を身につけるわけです」
 道徳を身につけるのではなく、道徳的なことに対する免疫を獲得する。道徳教育とは免疫をつけて丈夫な子に育てるということだったのか。
 聞けば、精神科医療の現場ではこうした免疫のない人が「すっごく多い」らしい。
「彼らはダブルスタンダードができないんです」
「ダブルスタンダード」は二重規範ということで政治家や行政を批判する際に使われるが、日常生活においては局面に応じてマルチな規準が必要になる。
――シングルスタンダードということなんですか?
「要するに『私は正しいことをやっているのに、うまくいかない』と言って、精神科を受診するんです。その人は自分が正しいと言い張る。正しさが重要なんですね。こっちとしては正しいのはわかるけど、もうちょっと上手く立ち回ったほうがいいと言いたくなる」
 道徳的な正しさは自己肯定感につながるらしく、そのままカチカチな道徳的人格に昇華されているのである。彼らの特徴は次の3つ――、

 ・プライド
 ・こだわり
 ・被害者意識

 正しさゆえに「プライド」が高く、正しさに「こだわり」を持ち、そのせいで何事も上手くいかないのだが、その原因を周囲の不理解だと解釈して「被害者意識」に苛まれる。被害者意識は正しさの証明になるわけで、これでは悪循環だろう。
「だから子供のうちにファンタジーの練習をしておく必要があるんです。道徳はファンタジー。規則だってファンタジーでしょ。その免疫をつけなきゃいけない」
 もしかすると道徳はウイルスのようなものなのかもしれない。感染して遺伝子に組み込まれてしまう人もいれば、抗体をつくって適切に運用できる人もいる。その違いは体質なのだろうか。
――免疫のない人はどうやって治療するんですか?
 私がたずねると、彼は「う~ん」と唸った。
「ひとつは選択肢を提示するという方法ですね」
――選択肢?
「あなたの言っていることは選択肢として認めるけど、他にも選択肢はあるよ、と示してあげるんです。『それはわかるけど、少し先に延ばしてみたら?』とか、『それはわかるけど、その前に飯を食ったら?』とか」
 道徳の相対化ということか。相対化することで離脱させるのだろうか。
「いずれにしても、きちんと話を聞いてあげるということが重要ですね。実際、聞いてあげると本当に感謝されますから」
 話を聞くに当たっては「決まり文句」があるという。
「話を聞いたら『よくおっしゃってくださいましたね』と言うんです。話してくれてありがとう、と肯定するんです」
 道徳の治療は、道徳の存在を認めることから始まるらしい。正しさを正しく認めることは何やら規則的でこれもまた道徳的行為といえるだろう。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。

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