「ああ、しまった」
スーパーのレジ前に並びながら、私は思わずそう大声を出した。前の女性が「え?」と振り向き、私も自分の声にびっくりしたくらいだった。
エコバッグを忘れたのである。
持ってくるのを忘れたことも悔しいが、レジ袋を買わなくてはいけないことが悔しい。いっそのことエコバッグを家に取りに帰りたいくらいなのだが、それが体力的にキツいということも悔しい。つまらないことかもしれないが、つまらないことを悔いる自分も悔しい。人生には他に悔いることはあるはずだが、これほど明確な「悔しさ」を覚えるのは久しぶりではないだろうか。
2020年7月1日、全国で一律にレジ袋が有料化された。近所でも無愛想に「レジ袋は有料です」と表示するコンビニもあれば「レジ袋の無料配布は終了しました」と、これまでがサービスだったことを思い知らせる店もある。そしてスーパーやドラッグストアにはこんな張り紙――。
CO2削減のためレジ袋の削減に取り組んでまいります。
お買い物袋のご持参にご協力ください。
協力を惜しむつもりはないのだが、以前はエコバッグを持参すると2円分のエコポイントがつき、「ご協力ありがとうございます」と感謝された。それらが終了し、レジ袋が有料化される。つまりエコバッグ持参には特典がなくなって一種の義務となり、忘れると罰金を科せられる感じなのである。レジ袋は「大」が5円、「小」が3円。あくまで本体価格でこれに消費税がかかるのだ。
罰金となると逃れたくなるのが人情で、当初はエコバッグを忘れた時、私はレジ前でエコバッグを買った。エコバッグは398円だが、特別に50ポイントがついたりする。レジ袋と違って何度も使えるし、50ポイントも得する。このほうが得だと自分に言い聞かせてエコバッグを買ったのだが、やがてエコバッグがどんどん増えていった。これでは毎回高価なレジ袋を買っているのと同じだと気がつき、前回エコバッグを忘れた際は、裸で商品を受け取った。これくらいなら無料の小分け袋で持ち運べると思ったのである。商品の形が表面に浮き上がるほどに詰め込み、「入った」と安堵したのだが、それらをまとめて持とうとした瞬間に「プチッ」と音がして、商品があたりに飛び散った。
「す、すみません」
私はつぶやき、慌てて拾い集めた。そして近くにいた店員に「やっぱりレジ袋をいただきたいんですが」とお願いした。すると彼はニッコリ微笑んで、私にこうアドバイスしたのである。
「レジ袋が破れちゃった、と言えばいいです」
驚くべきことに、レジの女性にその通りに言うと「はい、わかりました」とレジ袋を手渡された。景品を受け取るようで私はほくそ笑んだのだが、これを受け取るのは一種の詐取。有料の商品を騙し取るわけで、私は良心の呵責に襲われた。人格を問われているようで何やらぐったりと疲れたのであった。
考えてみると、買い物という行為は道徳的である。顰蹙を買わないように注意しながら規律的に売買を遂行する。私たちは買い物を通じて道徳を体得しているわけだが、ここにきて道徳性がさらに強化されたのではないだろうか。
あらためて整理してみると、レジ袋が有料化されたのは法律(「容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律」)に規定された省令(「小売業に属する事業を行う者の容器包装の使用の合理化による容器包装廃棄物の排出の抑制の促進に関する判断の基準となるべき事項を定める省令」)が改正されたことによる。つまり国の決定なのである。この法律は「生活環境の保全」などのために商品の容器や包装を規制するもので、省令には新たに「事業者は、商品の販売に際して、消費者にその用いるプラスチック製の買物袋を有償で提供することにより、消費者によるプラスチック製の買物袋の排出の抑制を相当程度促進するものとする」と明記された。途中で読むのが面倒くさくなって見過ごされそうだが、国はレジ袋を有料にすることで「プラスチック製の買物袋の排出の抑制」を「促進」できるものとする。抑制するのではなく、抑制を促進できるものにする。なぜこういう間接的な言い方になるのかというと、経済産業省と環境省は次のように決定したからである。
「レジ袋有料化義務化(無料配布禁止等)」を通じて消費者のライフスタイル変革を
促すこととした。
(『プラスチック製買物袋有料化実施ガイドライン』令和元年12月 以下同)
本当の目的はゴミの抑制ではなく、私たちの「ライフスタイル変革」なのだ。それも変革するのではなく変革を促す。遠隔操作による誘導なのである。なんでも「資源・廃棄物制約や海洋ごみ問題、地球温暖化といった、生活環境や国民経済を脅かす地球規模の課題が一層深刻さを増して」いるからライフスタイルを変える必要があるらしい。実は日本は政府を挙げて「地球温暖化対策のための国民運動」を展開しており、その中でも「ライフスタイルのイノベーション」を謳っている。日本語に訳すと「道徳の刷新」ということで、具体的には「低炭素なアクションを習慣的に実践する」(『地球温暖化対策のための国民運動の強化について』環境省地球環境局 平成28年5月 以下同)ように導くとのこと。「低炭素」とは二酸化炭素排出の抑制につながるということで、エコバッグ持参も「低炭素なアクション」のひとつ。私たちは低炭素な生活習慣を身につけるべきで、レジ袋有料化も「国民一人一人の自主的な行動を促す」ためのものだったのだ。
命令するのではなく、あくまで自主的な行動を促す。まさに道徳的行為たるゆえんなのだが、そのために日本政府は2018年以降の成長戦略の中で「ナッジ」という行動理論を採用している。これはアメリカの行動経済学者、リチャード・セイラー(2017年にノーベル経済学賞受賞)らが提唱しているもので、選択の自由を残したまま、人を「ナッジ(nudge/そっと後押しするの意)」する方法。本人には「自主的」だと思わせながら、行動を変容させるのである。日本でも実際に50万世帯を対象にした省エネ実験などで実証されたそうだが、行動変容に必要なのは次の2点だという。
1.同調性
2.損失回避性
まず周囲との同調性。人は所属する集団内での他のメンバーの実態を知りたがり、それと比較したり合わせようとするので、「みんなやっている」ということをPRする。みんながエコバッグを持てば、エコバッグを持ちたくなるというわけだ。行動経済学の理論では物を得る喜びより失う痛みのほうが強く感じるとされるので、損失を強調したメッセージが効果的らしい。レジ袋の金額を大きく明記すれば、損失を回避して使わなくなる。省エネ実験でも改善例との差額を明示することが有効だったそうである。
「損したくない」という心理を利用する。貧乏臭さで誘導するようだが、ライフスタイル転換に最も重要なこととされるのは「危機意識の浸透」だった。
地球温暖化という危機意識。それを国民に浸透させて共有すること。危機意識を煽れば強制せずとも自主的に動き始めるというわけで、環境省は「全国津々浦々」で「重層的・波状的」に危機情報を発信している。例えばこう宣言している。
今や私たちは「気候危機」とも言える時代に生きています。
(『環境・循環型社会・生物多様性白書』令和2年)
今は「気候危機」なのだ。パンフレット(『STOP THE温暖化』環境省 2017年)によると、人類が排出している温室効果ガス(二酸化炭素)が原因で、世界の平均気温の上昇が続いており、海面水位や海面水温の上昇も続いている。今後さらなる上昇が予測されており、「世界では、主要穀物収量が低下」し、家畜も弱体化する。「熱波は増加し」「熱ストレスによる死亡者は増加」「様々な感染症のリスクが高まる」……。
地球温暖化によって人類が滅亡する勢いなのだが、私などはつい、果たして本当なのだろうかと首を傾げてしまう。
というのも私が中学生の頃には「地球は寒冷化している」と盛んに言われていた。『氷河期が来る』(根本順吉著 光文社 昭和51年)という本がベストセラーになり、私も凍えるような恐怖を覚えながら読んだものである。あらためて調べてみると、1970年代は寒冷化の時代。実際にロンドンでは6月に雪が降り、ヨーロッパは大寒波にも見舞われた。CIA(アメリカ中央情報局)のレポートでも、地球は寒冷化に向かっており、温和な気候と余剰な食糧の時代は終わると報告されていた。氷河期が来るというのは「有力学者の一致した見解」(前出『氷河期が来る』)だったそうなのだ。確かに平均気温の推移を表わした当時のグラフを見ると、年々下がっていくように見える。ところが80年代になると平均気温が上がり、1988年にアメリカ中西部が異常な干ばつに見舞われ、その頃から「温暖化」が警告されるようになったらしい。地球物理学や気象学で何か重大な発見があったわけではなく、寒かった時は「寒冷化」で、暑くなると「温暖化」。実際、今夏のように酷暑が続くと頭がフラフラになり、自身の危機が地球の危機と重なるようで「温暖化の危機」を実感する。それに「寒冷化」のほうは太陽の活動周期などが原因とされたが、「温暖化」は人為的な温室効果ガスによるものとされ、そのほうが国際政治のテーマになりやすかったという事情もあったらしい。
寒冷化か温暖化か。
何しろ私たちの地球はひとつだし、対照実験もできないわけで、いずれの仮説も証明できない。となると推測するしかないのだが、地球惑星科学者の丸山茂徳さん(東京工業大学 地球生命研究所特任教授)によると、「温暖化」の原因が二酸化炭素排出だというのは「明らかなウソ」らしい。なぜなら地球の大気を構成している成分は窒素と酸素で99%を占める。二酸化炭素は質量比でわずか0・054%(体積比では0・04%)なのだ。
1万個の分子があったときに、二酸化炭素はそのうちの4個しかないということに
なります。これをppm(100万分の1)で表現すると、350ppmとなります。
現在、二酸化炭素は毎年1ppm程度増えています。100万個の分子の中で、二酸化
炭素の分子が毎年1個ずつ増えるからといって、急激に温暖化を進めることにつ
ながるでしょうか?
(丸山茂徳著『「地球温暖化」論に騙されるな!』講談社 2008年 以下同)
二酸化炭素はそれ自体が熱源なわけではない。二酸化炭素分子は地表からの赤外線を吸収しやすく、それが対流圏を温めるから「温室効果」があるとされるだけで、100万個中に1個増えたくらいでその効果が高まるとは考えにくいのである。丸山先生によると、二酸化炭素の排出量は増えている。そして地球の平均気温も高くなっている。しかし二酸化炭素が増えたから平均気温が上がったわけではないと指摘する。
二酸化炭素の増加とは温暖化の結果であって、原因ではないのです。
因果関係の逆転。平均気温が上がったから二酸化炭素が増加した。海水は温度が高くなると二酸化炭素を空中に放出するそうなのである。では気温に影響を与えているものは何かというと「雲」だという。雲は地表の約半分を覆っており、その量が「1%変わると温度が1℃変わる」らしい。確かに実感としても、雲のあるなしで気温はガラリと変わる。「温室効果ガス」の最たるものも二酸化炭素ではなく水蒸気。しかしながら水蒸気が雲になるメカニズムはまだわかっていないとのこと(雲生成には宇宙線が影響しており、宇宙線の増大によって地球は寒冷化に向かうというのが丸山先生の説)。肝心なことがわかっていない中で、二酸化炭素を犯人にでっち上げているそうなのだ。
実は「温暖化」説のリーダー的存在である気候学者のスティーブン・H・シュナイダーも「気候の作用と変化の可能性については」「多くのことが不確実なまま残っている」(スティーブン・H・シュナイダー著『地球温暖化の時代』内藤正明、福岡克也訳 ダイヤモンド社 1990年 以下同)と表明していた。気候を決定する要素は複雑すぎて、「細部にわたって完全かつ明確に解明するのは不可能である」とまで断言している。それゆえ詳しい予測は不可能だが、「平均的な状況」は「ある程度予測できる」そうで、その予測では「劇的な(気候)変化が来る可能性」があるという。
確かなのは可能性があること。さらに確かなのは次のことらしい。
われわれは、われわれのしていることがどんな結果をひき起こすのかを判断する
時間もないほどの速さで自然を破壊しつつある。
犯人は二酸化炭素を排出している「われわれ」。言ってみれば、証拠不十分ながらの自白なのだ。とにかく二酸化炭素排出は「急を要する問題」であり、地球温暖化の科学的根拠を待っている場合ではないという。気候変化は劇的なので「より多くの危険性と不確実性に直面することになるだろう。というのも、変化の展開が早ければ早いほど、詳細にわたる予測はできなくなるであろうし、どのように順応したらよいか、ますますわからなくなるからである」とのこと。今すぐ息を止めて対処せよと言わんばかりなのである。
善は急げということだが、急ぐことが善、急ぐから善になるかのようでもある。さらに彼はこう問いかけていた。
懐疑論者が議論ばかりしているあいだにも、温室効果ガスは大気のなかで増えつづ
けている。やがて地球温暖化の時代を引き継ぐ子供たちから、地球温暖化の時代が
始まるときにわれわれが何をしたか――あるいは、しなかったか――をたずねられ
たら、われわれは何と答えればいいのだろうか。
子供たちに言い訳できるかという脅迫。まさに道徳的な問いかけで、そこまで言われるとうなずくしかないだろう。そういえば「地球温暖化」を世界に広めたアル・ゴア(アメリカ元副大統領)もベストセラーになった『不都合な真実』の中で、こう訴えていた。
これは道徳的な問題だ。(原語ではI believe this is a moral issue)
(Al Gore著『an inconvenient truth』Bloomsbury Publishing 2006年
翻訳筆者 以下同)
彼によると、温暖化は「人類の文明史上最悪の破滅的事態」を招く「地球の真の非常事態」だが、それは科学や政治の問題ではなく、道徳的(moral)問題なのだという。どこが「道徳的」なのかというと、ひとつは正しい「時」の認識だ。
われわれは明日が今日であるという事実に直面している。われわれの前には「今」
という凶暴なまでの切迫性が立ちはだかっている。このような混迷の中では手遅
れということもありうるのだ。
マーチン・ルーサー・キング牧師の言葉を引用して、彼は切迫感を訴える。対策を一日たりとも延期してはならない。「ぐずつきは時の盗人」という諺も引用し、手遅れは取り返しがつかないと強調した。
さらに道徳的なのは、危機は絶望ではないということだ。危機は「世代的な使命感」や「道徳的な目的を強要する高揚感」をもたらしてくれる。さらには「超越を求める人間を邪魔してきた狭量や衝突を除外」し、人に「立ち上がるチャンス」を与えるという。
私たちがともに立ち上がる時、私たちの魂は満たされ、私たちはひとつになるだろ
う。不信感や絶望に苦しむ人々は自由に息ができるようになり、人生の意味を見失
っている人々は希望を見出すことになるだろう。
はっきり言ってしまえば「地球温暖化の危機」とは再生の物語。これまでの生活を悔い改めることで生まれ変われるわけで、これはまるで聖書にある「ヨハネの黙示録」ではないだろうか。
記されたことを守る人たちとは、幸いである。時が迫っているからである。
(『聖書』新共同訳 日本聖書協会 1987年 以下同)
ゴアならぬヨハネもまもなく起こること(大惨事)を人々に知らせていた。その内容については「秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」。つまり人々を矯正するわけではなく、あくまで自主性を重んじる。そのままにしておいても大丈夫。なぜなら「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」から。罪はおのずと罰せられるのだ。
これが「道徳的」の要だったのか。
私は深くうなずいた。道徳的行為を誘導するには「時が迫っている」と脅かす。裁かれる時が来る、まもなく来る、きっと来る、いつか来る……。この迫りくる感覚が自主的な「悔い改め」を導くのだろう。
ヨハネの黙示録には預言者として「人の子のような方」が登場するが、これはスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんのことかもしれない。彼女は15歳の時に「気候のため」と訴えて学校をストライキした。以来、国連など様々な場面で「地球温暖化の危機」をPRしている。過激な発言が注目されがちだが、あらためて彼女の自著を読んでみると、彼女は繰り返しこう訴えていた。
あなたの二酸化炭素排出量が多ければ多いほど、あなたの道徳的(原語はmoral)
義務も大きい。
(Greta Thunberg著『No One is Too Small to Make a Difference』
翻訳筆者 Penguin Books 2019年 以下同)
量的な相関関係を訴えているようで、おそらく彼女にとって「道徳的義務」とは、二酸化炭素排出という罪に対する罰なのだろう。レジ袋が有料になったのは、やはり罰金と解釈すべきなのだ。彼女は「あなたの立場が立派であればあるほど、あなたの責任は重い」と続け、こうつけ加えた。
大人は子供に希望を与える義務があると言うけど、あなたたち大人の用意する
希望なんて要らない。あなたたちには希望に満ちてほしくもない。私はあなた
たちにはパニックに陥ってほしい。私が毎日感じている恐怖を味わってほしい。
危機を感じてパニックに陥れ、ということだが、そこまで言うと呪いの言葉である。
もしかするとスーパーで私が陥ったレジ袋パニックも彼女の呪いだったのだろうか。
同書によると、彼女は「アスペルガー症候群」だった。しかし、彼女にとって、それは病気ではなく「ギフト」だという。物事を白黒はっきりさせないと気が済まないらしく、そのおかげで環境活動家として取り組んでいけるそうで、私のような物事をごまかしがちな者は彼女にとっての恐怖なのかもしれない。
ともあれ、私がエコバッグを忘れて悔いたことは間違いない。実際に悔い改めようとしたわけで、聖書にはこんな一節がある。
悔い改めよ。天の国は近づいた。
(「マタイによる福音書」/前出『聖書』)
もしかしてエコバッグは一種の免罪符。天国に行く時もエコバッグを持っていったほうがよいのだろうか。
髙橋秀実
たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。