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第8回

リアルと共感

コロナ禍で外出自粛が要請されている中、映画『花束みたいな恋をした』が大ヒットしているらしい。マスク着用で座席も制限されているにもかかわらず大盛況。娯楽としては不要不急のはずだが、まるで緊急を要する事態のようなのだ。
 タイトルにもあるように、『花束みたいな恋をした』は恋愛映画である。アニメでもなく、誰かが病気で死んだり殺されたりするというサスペンスでもない、普通の若者の恋愛を描いた実写映画。文化庁の文化芸術振興費補助金の助成を受けた国認定の恋愛映画であり、行きつけの美容院でも私はスタッフ全員から「いい映画です」「胸をぎゅっとつかまれました」と勧められた。何やら国家国民レベルで推奨されているようで、調べてみればSNS上でも大変な評判だった。
 目立つのは「リアル」と「共感」という言葉。この映画は「リアルすぎる」「すげぇリアル」「本当にリアルでびっくり」「怖いくらいにリアル」などと、おののくほどリアルで「共感しまくり」「共感しかない」そうなのである。なんでも映画を観ながら「首がもげるほど頷いた」と言う人もいれば、「わかりみが深すぎる」「『自分はみんなと違う』というみんなと同じ考えを持つすべての人に刺さる」「感情移入しすぎてグサグサ刺さった」と言う人もいる。何やら痛みを伴う共感ぶりで、共感が極まって「塊オブ共感」になるほどなのだという。
――そんなにリアルなんですか?
 20代の女性にたずねると、彼女はうれしそうに「超リアルです」とうなずいた。
――自分の身に覚えがあるっていうことですか?
「っていうか、こういうカップルいるよな、って思いました」
――人のことなんですか?
「っていうか、映画の中のふたりは大学生なんです。私は専門学校卒なんですけど、大学に行ってたらきっとこんな感じなんだろうなって」
 リアルとは現実的ということではなく、「きっとこんな感じ」という確信なのだろうか。ちなみに彼女は映画を2回観たという。1回目は「『花束みたいな恋をした』観たいな」と会社の同期に話したら、「私観たよ」と言われ、「一緒に観に行こうよ」と誘われて観に行ったという。2回目は別の友達に「『花束みたいな恋をした』観たいな」と言われたので、「私観たよ」と答え、「一緒に観に行こうよ」と彼女を連れて観に行ったとのこと。同じことを言ったり言われたりしながら2回観たということらしい。
 なんでいちいち一緒に行くのか?
 という疑問がわいたのだが、それこそ「めっちゃ共感するから」だという。観た後に話が盛り上がる。共感したということを共感するそうなのである。共感の共感によって共感が指数関数的に広がったのだろうか。SNS上の感想でも「長年付き合った経験のある人には共感の嵐なんだろうな」「経験がなくても既視感を感じさせて切ない」などと共感の予感を共感していたり、「ちゃんと恋愛して、別れたことのある全員がどこかしら共感する」と共感を迫る人もいる。そもそも恋愛は「ちゃんとする」べき行為らしく、「たくさんの恋愛を経験してきたモテ線の友達は絶賛していた」とのこと。モテる人は必ず共感するそうで、この映画に対する共感は「モテる人、モテない人、いい恋愛をしてきた人、してきてない人」を判定する「リトマス試験紙」らしいのだ。
 彼らは一体、何に共感しているのか。というより、「共感」とは一体何なのかわからなくなり、私は実際に映画館に出かけてみることにした。SNS上では「リアルすぎるのでカップルで行かないほうがいい」と警告されていたのだが、リアルを体感するために妻を同行したのである。

ちゃんとした恋愛

 これは……。
 映画が始まり、しばらくして私はつぶやいた。
 まさに道徳的ではないだろうか。
 主人公は八谷絹(有村架純)と山音麦(菅田将暉)のふたり。大学生の彼らが出会って恋に落ちるという展開なのだが、ふたりは「落ちる」というより、符合する、合致する。読んでいる本やアニメ、やっているゲームなどが合致し、履いている靴まで合致するのだ。告白するタイミングまで合致しているので、彼らは「同期する」というべきだろう。
 第5回にも記したように「道徳的」とは次のような性質である。

道徳的行為と一般に呼ばれているものは、すべて、それがあらかじめ設定された規則に合致しているという共通の性質を有している。
(エミール・デュルケム著『道徳教育論』麻生誠、山村健訳 講談社学術文庫 2010年)

 道徳的とはすなわち「規則性」。規則に合致しているからお互いに相手の行動も予測でき、集団生活も円滑に営めるというわけだ。道徳の根本機能は「人間の行為に規則性を与えること」(同前)であり、このふたりも明らかに規則性によって結ばれている。お互いの心中の言葉(ナレーション)も文体が揃えられており、規則性を強調した演出になっているのである。
 昨今の恋愛は好き嫌いより、合う合わないということなのだろうか。
 確かに道徳の教科書にも「すききらい しないで」「きそくただしい せいかつ」(『しょうがく どうとく いきる ちから 1』日本文教出版 平成30年)を送ることが「よりよく いきる ために たいせつな こと」(同前)とされていた。映画のふたりも「よりよく生きる」というテーマで合致しているようなのだ。
 私とは違うな……。
 いきなり共感できず、私は隣の隣の席の妻を見つめた。
 私自身の経験から言わせていただければ、相手の女性が絹のように「私もそれ好き」などと言って趣味趣向が合うと、それだけで相手のことが嫌いになる。どんなに美しい人でもくすんで見える。むしろ私が好きなことに無関心な女性に心惹かれるのである。おそらくこれは自己嫌悪が原因なのだろう。そもそも自分自身のことが嫌いなので、自分に合う人も嫌い。できれば合わない人に救ってもらいたいという願望があるのだ。実際、妻は私の愛好していた野球や落語、浪曲などもことごとく否定した。どこが嫌いなのかと理路整然と説明されて私は圧倒され、おかげで薀蓄自慢から更生できたような気がする。そう考えると、彼らのように自分と合う人が好きというのは、もともと自分のことが好きなのだろう。お互いの自己愛を相互に確認するわけで、それも道徳の教科書にあったクラス全員で「自分のよいところ」を追求する姿勢に通じているのではないだろうか。
 規則性といえば、絹が就職活動の面接で「圧迫面接」を受けて傷つき、泣いた時、麦はこう言って慰めた(以下、セリフの引用はすべて『ノベライズ 花束みたいな恋をした』坂元裕二原作・脚本 黒住光著 リトルモア 2021年)。
「その人はきっと今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人なんだと思うよ」
 一方、就職した麦が取引先から「死ね」と怒鳴られ、唾を吐かれた時、絹はこう言って慰めた。
「その人は、今村夏子さんのピクニック読んでも何も感じない人だよ」
 完全なる符合。恋心のアイコンのようなので、私も今村夏子の短編小説『ピクニック』を読んでみたのだが、「感じない」どころか、まるで道徳の副読本ではないかと驚嘆した。
 舞台は地方のショーパブ。ビキニ姿のウエイトレスがローラーシューズを履いて接客する店にひとりの女性が入店する。左の脇腹に虫刺されの赤い痕がある「美しいとは言いがたい」「成熟した大人の女のひと」(今村夏子著『こちらあみ子』ちくま文庫 2014年 所収 以下同)。見た目は冴えないが、聞けば彼女は有名お笑いタレントと交際しているという。職場の同僚たちは興味を抱き、有名お笑いタレントとの出会いのエピソードなどを訊いたりする。そして彼女の恋の行方を応援するようになるのだが、そこに生意気な新人が入ってきて「あのひと一体いくつなんですか」などとあからさまに彼女を侮蔑し、「あのひと自分のついてる噓がばれてないとでも思ってるんでしょうか」などと話に水を差すのである。同僚たちは新人に対して憤る。噓だとわかっていても励まし、それに付き合うことで友情を育む。物事の真偽より大切なことがあるのではないか、というようなストーリーなのである。道徳の教科書に照らし合わせると、同僚たちは「ともだちと なかよくし、たすけあう」(前出『しょうがく どうとく いきる ちから 1』 以下同)一心のようで、その中で「よい こと、わるい こと」を判断し、彼女を応援するためにそれぞれが「やるべき ことを がんばる」。店でも「まわりの ひとに しんせつに」「みんなの ために はたらく」姿勢のようで、それを通じて「いきる ことの すばらしさ」を訴えているようなのである。
 傷の舐め合いか。
 私などはそう思ってしまう。いや、まだ傷にもなっていないようで傷予防の舐め合いではないだろうか。恋愛として考えると、生意気な新人が指摘するように、単なる妄想でまったくリアルではないのだが、共感すべき恋愛話としてはリアルということか。描かれているのは恋愛のリアリティーではなく、恋愛不在のリアリティーなのかもしれない。

恋する自分

 符合に次ぐ符合で、やがて絹と麦は同棲を始める。しかし次第にふたりの間には亀裂が入るようになる。大学を卒業し社会人になることで「すれ違い」が生じるという展開なのだが、私は「なんでそんなことで?」と言いたくなった。
 例えば、麦が仕事に追われていると、絹からLINEが入る。「パン屋の木村屋さん、お店畳んじゃってたよ」と。ふたりの思い出のパン屋が閉店したという知らせだったのだが、それに対して麦が「駅前のパン屋さんで買えばいいじゃん」と返信した。それを読んで絹はショックを受ける。寂しさを共感できないことに愕然とするのだ。このエピソードがお別れの伏線になっているようなのだが、私なども寂しさより食欲が大切で、駅前のパン屋で買えばいいんじゃないかと思う。駅前のパン屋にも思い出はあるし、物語もあるにちがいないのである。
 さらにすれ違いを広げたのはこんなエピソード。ふたりで舞台を観に行こうと約束していたのに、麦はすっかり忘れ、その日に仕事を入れていた。彼女が「大丈夫。大丈夫だよ」とあきらめようとすると、彼は「大丈夫じゃないでしょ」と仕事のほうをキャンセルしようとする。彼女は「仕事だから」いいと言うが、彼が舞台に行くと言い張る。彼が「じゃあ行く」と言うと、彼女は「じゃあだったら行きたくない」「じゃあの数が多いんだよ、最近」と落ち込み、結局彼は仕事に行くことになる。
 俺のことか……。
 このやりとりは身につまされた。私も妻に対して「じゃあ」ばかりだった。「じゃあって言うな」と注意されて「じゃあ言わない」と答えるような有様で、あろうことかプロポーズの言葉も「じゃあ入籍しようよ」だった。
「やり直せ」
 妻はそう言って憤り、私は居住まいを正した。そして「じゃあ」を削除して「僕と結婚してください」と申し述べたのである。
 映画の中のふたりと異なるのは、このやり直しということかもしれない。妻の場合はやり直しが許されたのである。寛容というか懐が深いというべきか。それに比べると絹は狭量ではないだろうか。
 察するに、彼女は道徳でいう「間主観性」(第2回)を重視しているのだ。自分自身を客観的に眺めるという視点。寂しい自分。寂しさを共有したい自分。憤る自分。相手に憤ってしまう自分。憤られて憤る自分。すべて自分に帰着するばかりなので、これでは相手との接点が生まれない。私の妻のように相手を躾けるという発想がまったくないので、ズレ始めるとドミノ倒しのように一気に関係が崩れてしまうのだ。しかし崩れていく中でも麦は食い下がった。憤る絹にこんなことを言う。
「結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、家にいなよ。働かなくても、別に家事もしなくても、毎日好きなことだけしてればいいじゃん」
 えらい。
 私は思わずつぶやいた。結婚して30年以上経つが、いまだに私はそんな宣言をしたことがない。おそらく結婚への覚悟が足りないのだろう。彼は絹からお別れを告げられた時も、泣きながら「絹ちゃん、俺、別れたくない」「別れなくていいと思う。結婚しよ」「結婚して、このまま、生活続けていこ……」と懇願する。たとえ恋愛感情がなくなっても、それはいい夫婦になる準備なんじゃないか、とまで言う。捨て身になってとりすがるのである。
 彼の迫真の演技に私はもらい泣きしそうになった。
 自分がしてこなかったことを反省し、まったくしなかったのに結婚してくれている妻にあらためてお詫びしたくなった。私はすっかり麦に共感したのだが、そんな麦に絹はこう言い放ったのである。
「またハードル下げるの?」
「ハードル下げて、こんなもんなのかなって思いながら暮らして、それでいいの?」
 私からすれば麦はハードルを上げている。好きなことをやるより、ふたりのために頑張って稼ぐというのは大変なことで、その覚悟だけでも彼はハードルを上げているではないか。
 なんなんだ、この女。
 さっきから黙って観ていたが、有村架純でなかったら絹は傲慢なブスではないか。そもそも絹のいう「ハードル」とは一体、何なのか。あらためて文部科学省の『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』を調べてみると、こんな「指導の観点」があった。

自己を見つめ、自己の向上を図るとともに、個性を伸ばして充実した生き方を追求すること。

 大切なのは自分。そして自分の個性を伸ばすこと。そのためには「より高い目標を立て、希望と勇気をもち、困難があってもくじけずに努力して物事をやり抜く」のである。ふたりの生活よりそれぞれの「個性」やら「目標」を優先しているようで、文部科学省の「道徳」がふたりの結婚を邪魔しているのだ。
 ともあれ、ふたりは別れようと思うタイミングも合致していた。それぞれの友達に
「絹ちゃんと別れようと思ってる」
「麦くんと別れようと思ってて」
 と告白する。出会いも別れも同期する。「恋愛は一人に一個ずつ」というセリフもあったが、一個ずつゆえに平行線を辿ることになるのだろうか。

不可能な恋愛

『高慢と偏見』や『分別と多感』で知られるジェーン・オースティン風に言えば、これは「恋愛と道徳」、あるいは「リアルと共感」と呼ぶべき現代の結婚事情なのかもしれない。
 などと思ったのだが、終盤のシーンで私は背筋がぞくっとした。
 ふたりがファミリーレストランで別れ話をしている時に、一組の若いカップルが入ってくる。そして彼らがふたりとまったく同じような会話をする。好きなミュージシャンが合致することを確認し、ライブで偶然会えたことに驚き、
「会えましたね」
「会えましたね」
 とオウム返しのような会話をするのである。それを聞きながら麦がむせび泣く。自分たちも数年前はそうだったのに。あんなにぴったり合っていたのに、なんでズレてしまったのかと。麦の切ない気持ちに思わず共感しそうになったのだが、若いカップルの機械的な会話を聞いて私ははたと気がついた。
 これはもしやアンドロイドの恋愛ではないだろうか。
 彼らは「道徳」がプログラムされたロボットなのではないか。
 かつてアイザック・アシモフが「ロボット工学の三原則」(アイザック・アシモフ著『われはロボット』小尾芙佐訳 ハヤカワ文庫 2004年 以下同)を提唱していた。それは、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」「ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない」、そして、これらに反しない限り、ロボットは「自己をまもらなければならない」とある。人を傷つけてはいけない。与えられた命令には服従し、自分自身を守る。つまりロボット同士は同期することはあっても恋愛はできないのである。
 絹と麦も道徳プログラムに制御されており、制御ゆえに恋愛にはならない。同期して同調することはあっても、ズレを修正できないのでいずれ別れることになる。別れても同期しているので「会えましたね」「会えましたね」と再会し、いずれまた別れる。
 これは近未来というか現代を舞台にしたSF映画ではないだろうか。これがリアルで共感を呼ぶということは現実がSF化しているのだろうか。考えてみれば道徳は人間を制御するプログラムなので、もともとSFなのである。
「お腹が空いちゃった」
 映画が終わると、妻がそう言って微笑んだ。麦がつくったパスタがおいしそうで、「冷めないうちに食べなさい」と思ったそうである。恋愛について考えさせられた私からすると思いもよらぬ感想で、それもまたリアルで共感したといえるだろう。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。

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