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第9回

官能のゆくえ

「……どうせ、お前たちは、世の中の掟にそむいて、やってのけようとするんだろう。 お前が馬鹿にしている世間の道徳や掟が、どれだけ、お前のいう自由な恋の邪魔をするか、見ればいいんだ」(瀬戸内寂聴著『花芯』講談社文庫 2005年)

 このセリフに象徴されるように恋愛はえてして不道徳である。公平、公正という観点からしても不道徳。恋愛を描く文学も道徳という掟から自由といえるわけで、恋愛文学を読めば逆にその掟が見えてくるのではないだろうか。
 2002年に創設された「女による女のためのR―18文学賞」(主催/新潮社)はその名の通り、女性限定の文学賞である。原稿を応募するのも女性で、審査するのも女性。「R―18」と指定しているのは「官能」がテーマだから。それまでの官能小説は男のためのものだったが、これからは女性のために女性が官能小説を書く。女の感覚で女の「性」を描き出す。世の女たちの「性」を反映する文学イベントといえるのだが、今年(第20回)の受賞作「ありがとう西武大津店」(宮島未奈著)を読んで、私はこう思った。
 それで?
 一向に官能的なシーンが始まらず、まだかまだかと思っているうちに話が終わってしまったのである。受賞作は、滋賀県大津市に住むふたりの女子中学生の物語。同市にある西武百貨店が閉店することになり、ひとりが閉店の日まで店に通って、テレビ中継に映り込もうとする。もうひとりがそれを録画したり、協力したりする。なんでこんなことしなきゃいけないのかと訝ったが、実は言い出した彼女の祖母が病気で入院しており、テレビに映ることが祖母へのメッセージだったという話なのだ。
 心温まるいい話なのだが、セックスはおろか男もほとんど登場しない。もっぱらふたりの友情を描こうとしているようで、不道徳ではなく道徳的ではないか。「ともだちと なかよく」(『わたしたちの道徳 小学校1・2年』文部科学省 平成29年)というジャンルに収録されるエピソードのようで、「ともだちのおばあちゃんが入院していると知った時の島崎さんの気持ちは?」と出題したくなる。まとめとしては「友じょうは よろこびを 二倍にし かなしみを 半分に する」(同前)と言わんばかりなのである。
 官能はどこに?
 私は首を傾げた。期待していたのは『花芯』のような官能小説である。貞操の裏に蠢(うごめ)くふしだらで淫靡な情念、陰茎をなでられるような文章に触れたいのだ。

シスターフッドの復讐?

 もしかすると賞について何か勘違いをしていたのではないかと、受賞作が掲載されている『小説新潮』(2021年5月号 新潮社)を読み返してみると、実は10年前に募集要項の変更があったらしい。それまでは「女性が書く、性をテーマにした小説」だったが、現在は「女性ならではの感性を生かした小説」とのこと。必ずしも「性」をテーマにする必要はなく、女性ならではの「感性」を生かせばよいらしい。「性」は行為としてのセックスではなく、性別の「性」ということなのだろうか。考えてみれば「官能」も「官能検査」という言葉もあるように、「五官の感覚機能」(『角川大字源』角川書店 1992年)のことである。五官(目、耳、鼻、口、皮膚)による視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のことで、要するに「感覚」と同義。セックスを描かなくても感覚を生かせば官能小説になるわけで、となると受賞者の宮島未奈さんは道徳性に官能しているのだろうか。
 遡ってみると、4年前の受賞作「アクロス・ザ・ユニバース」(白尾悠著/のちに「夜を跳びこえて」と改題され、『いまは、空しか見えない』〈新潮社 2018年〉に収録)も、かなり道徳的だった。こちらはふたりの女子高校生の物語。ひとりは「鉄仮面」というあだ名で成績が学年女子トップ。もうひとりは派手な服装に身を包む劣等生のギャル。まったく接点のないふたりだったが、ある日、偶然、東京行きのバスに乗り合わせる。成績優秀な彼女は父親に内緒で志望している大学の下見に。ギャルのほうは以前に自分を暴行した男子への復讐のために。映画でいうバディフィルムのような展開で、旅の途上でふたりの間にほのかな友情が芽生える。実は成績優秀な彼女は進路を決めつける強権的な父親の殺害を妄想しており、ギャルのほうは自分をレイプしておきながら和姦だと白を切る卑劣漢が許せない。邪悪な男たちに苛まれるふたりはやがて通じ合い、最後にひとりが「あんたは、悪くない、ぜんぜん、悪くない」と叫ぶのである。
 悪いのは男、ということか。
 文部科学省の『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』に照らし合わせると、ひとりは「向上心、個性の伸長」のために大学を選ぼうとしており、もうひとりは「異性についても理解しながら、人間関係を築いて」いこうとしているわけで、ふたりとも道徳的に正しい。正しい道を歩もうとしているのに男たちが邪魔をするという論理なのである。
 これでは勃たない。
 ちなみに勃起というのは副交感神経が優位になって起こる現象で、交感神経を刺激する論理的な話では勃たないのである。しかし彼女たちの官能という観点からすると邪悪な男たちが感情を引き出している。邪悪な男たちの存在によって「正義の実現に努める」(同前)も官能的なフレーズになるということなのだろうか。
 さらに受賞作を遡ってみると、2004年(第3回)の「ねむりひめ」(吉川トリコ著)などは行為としてのセックスを正面から取り上げていた。
 女子高校生が大好きな彼氏と結ばれる物語。彼とキスをすると「からだが溶けてなくなるんじゃないか」(『しゃぼん』集英社文庫 2009年 所収 以下同)と感じ、セックスする時も「髪の先から滴り落ちる雫をすべて受けたいと思う。飲みほして、干からびるまで、すべてあたしに欲しい」と願ったりする。昔ながらの官能的な描写なのだが、セックスの回数を重ねるうちに「あたしはなにも感じなくなった」とのことで、不特定多数とセックスするようになる。友人のボーイフレンドや通りすがりの穴掘り男や「自分の父親より年配の男」やら「三人組の男」やら。それらは「ただのひまつぶし」で、やはり恋人とのセックスは特別だと気がつく。彼が射精する時、たとえ感じなくても「世界でいちばん大好き。それだけはほんとうなの」と思って泣きそうになるのだ。
 好きなのに感じない。嫌いでも感じる。不道徳を官能するようで大変読み応えがある。男たちもリアルに描かれていたようなのだが、2008年(第7回)の読者賞受賞作「十六歳はセックスの齢」(山内マリコ著『ここは退屈迎えに来て』幻冬舎文庫 平成26年 所収 以下同)になると、男は何やら記号的に登場するだけになり、男女間のセックスも嫌悪の対象になっていく。
 これもまたふたりの女子高校生の物語。16歳になるとクラスの女子たちが次々と「処女でなくなっていく」という。しかし妄想癖が激しい「薫ちゃん」はもっぱら夢の中でセックスし、やがては昏睡状態に陥る。一方の「あたし」は「童貞ではない」というだけの理由で選んだ男子と初めてのセックスをする。「少しは気持ちいいのかなぁという期待は吹っ飛び、ヤラレているという哀しい現実だけがあたしの上にのしかかった」とのこと。計画通り16歳でセックスしたという達成感は覚えたものの、「なにもかもが悲しい。そして気まずい」という感覚に襲われる。現実のセックスは「得体が知れない」「厄介ごとの火種」。セックスより妄想のほうが「幸福感で満たされ」るらしく、ふたりはセックスへの不快感でつながれているようなのだ。
 男は要らない、と言いたいのだろうか。男に依存しない快楽。男が期待する官能に対してNOを突きつける。フェミニズムという道徳に基づく官能なのだろうか。
 シスターフッドとはこのことか。
 ようやく私は気がついた。女性同士の話ばかりが続くと思っていたが、これはひとつの流行らしく、その連帯感を「シスターフッド(Sisterhood)」と呼ぶのである。インターネットで検索してみると、これはもともとフェミニズムの標語。昨今の「#MeToo」運動などで再注目されるようになったという。女性同士の理解と愛情、さらには男の支配からの解放。男を排除して女性同士の絆を深めることが官能的なのだろうか。

きちんと楽しく

 受賞作を読み続けているうちに私は16世紀に修道女の聖テレジアが記した『完徳の道』(カルメル会訳 岩波文庫 1952年 以下同)を思い出した。女性作家たちの官能は修道女(英語では「sister/シスター」)の世界に重なるような気がしたのである。
 聖テレジアによれば世間は「惡魔の權力の下」にある。悪魔に支配されているわけで、セックスについても「彼等が溺れ浸つてゐる誤れる快樂の果は永遠の火ではありませんか」と拒絶する。ちなみにカトリックでいう「原罪」とは欲情によるセックスのこと。アダム以降の「すべての子孫は、肉の欲情によって生まれ、原罪を引きずることとなった」(アウグスティヌス著「信仰・希望・愛(エンキリディオン)」赤木善光訳/『アウグスティヌス著作集 第四巻』教文館 1979年)のだという。私たちは両親の愛ではなく肉欲の結晶であり、誰もが原罪を背負っていると説くのである。
 それゆえ彼女らは「離脱」という務めをする。神からの「靈的の愛」を得るべく、「この世の事物への執着心を捨てる」(『現代カトリック事典』エンデルレ書店 昭和57年)。世間から離れ、家族からも離れ、自分自身からも離れる。主観から離れるわけで、道徳でいう「間主観性」に通じる境地。そうすると――、

主は貴女と共に其處においでになります。自分の上に眼を注ぎ己が靈魂の奥底に自分をお眺めなさい。さうすれば必ず貴女をお棄てにならない聖主を見つける事が出來ませう。外からの慰めがなくなればなくなる程、聖主は貴女を喜びで滿たして下さるでせう。(前出『完徳の道』 以下同)

 神から愛されていることに気がつくでしょう、ということ。実は彼女たちは神と「許婚(いいなづけ)」の関係にある。神は修道女を妻として愛しており、他の被造物と語り合うのを嫉妬するそうで、「妬み深き迄にお愛し下さいます」とのこと。一種の妄想なのだが、妄想は苦難によって補強される。苦難があればあるほど喜びは増す、つまり妄想はふくらむという仕掛けなのである。
 期せずして私はムラムラしてきた。「彼等が溺れ浸つてゐる誤れる快樂の果は永遠の火ではありませんか」という一文も、快楽を際立たせている。溺れるほどの快楽。禁じられることで快楽の存在は認められ、その火は燃え盛るような気がするのである。
 修道院で厳守すべきは「愛德の掟」。修道女たちは神に守られているが、悪魔の誘惑が張り巡らされているので常に警戒しなくてはいけない。お互いに深く愛し合い、連帯して悪魔と闘うのだ。

本當に愛し合ふ者にとつては、どんなに耐へ難いやうな事でも忍び易くなり、お互ひに心配を懸けるのは眞に辛いものとなる筈です。

 おそらくこれが元祖「シスターフッド」ではないだろうか。しかし愛しすぎるのは悪魔の「陥し穽(落とし穴)」らしい。誰かを愛し過ぎることで、かえって愛が冷めたり、修道院の中に党派をつくらせることになり、神への愛が疎かになってしまう。神の愛のためにも、「この種の特別の愛は注意して愼むべきです」と釘を刺される。成就できない地上の愛。禁断の愛欲がここに生じるわけで、修道院の道徳は官能的に彩られるのである。
「女同士だから正直に言えるんです」
 以前、ある女性がしみじみと解説してくれた。彼女はレズビアンで、女性と結婚式も挙げていた。
「相手が男性だと気持ちを伝えづらいでしょ」
――そうなんですか?
「セックスの時に『痛い』『違う』『そこじゃない』とか言ったら、男は中折れしちゃうじゃないですか」
 中折れとは性交中に勃起が萎えること。ちょっとした指摘でも男は萎える。「下手ね」などと言われたら、たちまち萎える。正直なコミュニケーションは不可能で、時にはウソもつかなければならない。男相手はウソにウソを重ねることになり、道徳的に不実な人間になってしまうのだ。
「女性同士なら正直に気持ちを伝えられます。私たちは中折れしませんから」
 女性同士なら素直になれる。彼女にとって快感とは気持ちを通じ合うこと。男相手の場合はセックスが障害になるが、女同士ならセックスで快感を高め合えるらしい。そういえばレズビアン作家のガートルード・スタインは、その世界をこう表現していた。

彼女たちはとてもきちんと楽しくしていた。きちんと楽しくしていることは、彼女たちが毎日していた楽しいことを毎日することだった。きちんと楽しくしていることは、きちんと楽しくしたあとで毎日を同じ時間に終えることだった。
(「ミス・ファーとミス・スキーン」/『新装版 レズビアン短編小説集』利根川真紀編訳 平凡社 2015年)

 この「きちんと」とは「regularly」、つまり規則正しいということで、原文では「regularly gay」という一文が繰り返されている。「gay」は「同性愛」を意味するが、「楽しく」も意味している。レズビアンは規則的に楽しいということで、道徳性を享受できるのだ。
 2006年(第5回)の受賞者である宮木あや子さんは、男女であってもレズビアンであってもセックスを巧みに描写する。しかしよく読むと、男女の場合はトラブルとして描くことが多いようで、レズビアンのほうが筆が滑らかに思える。男のペニスは「異物が身体に入ってくる」(宮木あや子著『官能と少女』ハヤカワ文庫 2016年 以下同)という具合に違和感がベースにあるが、女性同士の場合は「泡の流れ落ちた中指と人差し指を、武田さんは私の口の中に押し込みました。石鹼の味のするその二本の指は、ゆっくりと舌の上を撫でまわし、爪で上顎をこすり、引き抜かれたときには私の唾液が糸を引いていました」と滴るように流れる文章だ。
 この違いは一体、何なのか。察するに、これはセックスを描いている主体が、描かれている客体でもあり、主客同一の恍惚に達しているのだろう。男とのセックスは主客が分離してしまうので異物感がぬぐえない。文章の流れからしても「irregularly (不規則、不揃い)」になるようで、男は不道徳なのである。

しぼみゆく男根

 女性作家といえば2016年に芥川賞を受賞した『コンビニ人間』(村田沙耶香著 文春文庫 2018年)も驚くほど道徳的で、私は唖然とした。
 主人公は36歳の独身女性。彼女はコンビニで働き、コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打つ。マニュアルの中でのみ「普通」の人間で、外の世界には適応できない。まるで修道院の修道女のようなのである。
 ある日、コンビニに35歳の独身男がアルバイトとして入店する。彼は遅刻はするし、挨拶もできないダメ人間。さらには自意識過剰で実は婚活目的で入店したなどとのたまわって女子店員や客にストーカー行為をしたりする。どうしようもないクズ男なのだが、聞けば住むところもないようで、見るに見かねた主人公が彼を家に泊めることになる。性的にもまったく惹かれない共同生活。しかし世間は彼女が「普通の人間」になったと思い、掌を返したように歓迎した。コンビニの外の世界には異性愛やら結婚という同調圧力がはびこっているのだ。彼女は圧力に屈してしばらく彼との生活を続けるが、やがて切れる。
「コンビニの『声』が聞こえるんです」
 まるで神の降臨ではないだろうか。彼といたほうが「都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」と啖呵を切って離脱するのだ。そしてコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を眺め、「この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた」という。細胞がコンビニの声に呼応しているとのことで、その描写はやはり官能的だった。
 状況的には聖テレジアの『完徳の道』に似ているのだが、私はムラムラしなかった。なぜかと考えるに、おそらく『コンビニ人間』は淫靡でないからだろう。コンビニ内で安心することはあっても、コンビニで絶頂感に達することはない。性愛の域には至っていないのではないか、と思ったのだが、村田沙耶香さんはモノを相手にセックスするというSF小説『消滅世界』(河出文庫 2018年 以下同)を発表していた。
 人工授精が一般化し、夫婦間のセックスが「近親相姦」と呼ばれるようになっている近未来。その世界では「ヒト」相手では本当の恋愛は成立しないとされている。なぜならヒトとの恋愛は「マニュアルじみてしまう」から。「そろそろ手を繋ぐ時期だとか、キスをしたら次はこうするべきだとか。それは二人の肉体が決めることだとわかっているのに、ついつい、頭に染みついたマニュアルに従いそうになってしまう」ということで、ヒト相手の恋愛はプログラムに支配されていることに人々が気がつくのである。そこで彼らはヒトではなく、モノに恋愛するようになる。

ヒトではないものとの恋は、工夫することから始まる。どうすれば手を繋げるのか、どうすればキスができるのか。ありとあらゆる方法で、自分の肉体を使って相手にアクセスしようとする。爪も髪も耳たぶも、相手を肉体で感じ取るための道具になる。

 かくしてヒトはキーホルダーに恋したりする。キーホルダーとデートして、しまいには貪るようにセックスしたりする。5分で性欲を処理できる「クリーンルーム」が開発され、やがてヒトは性欲からも解放される。世間で前提とされている「性」「欲情」「愛」「家族」などを除去すると、世界はどう見えてくるのか。彼女の小説は一種の思考実験のようなのだが、すでに世界はそうなっているような気がして私はぞっとした。
 もう勃たないでしょう。
 村田さんはそう言いたいのだろうか。いや、おそらくこれは道徳教育のメッセージなのだろう。
「決めつけてはいけない」
  恋愛もセックスも決めつけてはいけない。性別も決めつけるべきではないし、快感も人それぞれ。そもそも『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』には「家族愛」「郷土を愛する」「国を愛する」とあるが、人を「愛する」とは謳われていない。官能の世界も個人の「自主、自律、自由と責任」(同前)であるべきだと訴えているのだろう。確かに道徳的には正しいのだろうが、何やら冷や水をかけられたようで、私の男根はしぼんでいくばかりである。いっそのこと妻のように「このED野郎!」と不道徳に断じてもらったほうが、その反動で勃つような気がする。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。

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