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第10回

うらみハラスメント

そもそもなぜ学校教育で「道徳」が教科化されたのかというと、その直接の理由は「いじめ」問題だった。
 あらためて経緯を整理すると、平成25年に安倍晋三首相(当時)が私的諮問機関として官邸に設置した「教育再生実行会議」において「第一次提言」(平成25年2月26日)がまとめられた。その中で「いじめを早い段階で発見し、その芽を摘み取り、一人でも多くの子どもを救うことが、教育再生に向けて避けて通れない緊急課題となっている」ことが確認され、そのために「道徳教育の重要性を改めて認識し、その抜本的な充実を図るとともに、新たな枠組みによって教科化」すべきという結論に至ったのだ。
 議事録(教育再生実行会議 第2回議事録)によれば、安倍元首相は以前にも教科化を進めようとしたが、野党側から「あなたに道徳を説く資格があるのか」と糾弾されたらしい。そこで彼は「私は確かに至らない人間でありますけれども、至らない人間である私でも子供たちに道徳を説く義務はあるのではないか」と反論した。道徳は資格ではなく「大人の義務」だという。大人はいじめ問題も「スピード感を持って」解決する義務があり、そのための教科化だったのである。
 いじめをなくすための「道徳」。それゆえ道徳の教科書はどれも「いじめ」が必須のテーマになっている。いじめをやめさせるのであれば「いじめはいけません」「いじめはやめましょう」と禁じればよさそうなのだが、それでは「芽を摘み取」ることにはならないらしい。学習指導要領によれば道徳は押しつけたり、決めつけてはいけない。あくまで民主主義に基づく教育なので上から禁じるのではなく、「考える道徳」「議論する道徳」でなければいけないので、生徒たちはこう問われたりする。

  なぜ、いじめをしてしまうのだろう。
    (『小学どうとく 生きる力 3』日本文教出版 平成30年 以下同)

 なぜか、いじめる側の心中を察するのである。実例として「あの子を見ていると、イライラするの」「遊んでいるだけ」「みんなもやっているから」などという理由が挙げられている。さらには「どうして、知らないふりをしてしまうのだろう」と傍観者の心中も考えさせられる。「注意したら、今度は自分がされるかも……」「ぼくにはかんけいないよ」という回答もついており、何やら「いじめる」「知らないふりをする」という行為が当然のことのように前提とされているのだ。教科書では「いじめをなくすためにはどんなことがたいせつなのか、みんなで話し合ってみましょう」と指導されているのだが、みんなでしっかり話し合うには、確かな「いじめ」が必要になってくる。いじめ問題を解決するには、まず誰かをいじめなくてはいけないようで、これでは本末転倒。大体、なぜいじめる側の心中に重点を置くのか、と考えてはたと気がついた。
 これこそ「うらむ」ということではないだろうか。「うらむ」というと怨念のようなことを連想しがちだが、「うらむ」はもともと「うら(心)」+「みる(見る)」。ゆえに次のようなことを意味する。

不当な扱いを受けて、不満や不快感を抱きつつも、それに対してやり返したり、事態を変えたりすることができず、しかもずっとそのことにこだわり続け、こういうことをする相手の本心は何なのだろうとじっと思いつめること。
(『古典基礎語辞典』角川学芸出版 2011)

 いじめられている時に、いじめる者の「うら(心)」を考えることを「うらむ」というのである。「考える道徳」とは「うらむ道徳」。いじめる者をみんなでうらむ。みんなでうらむとうらみが晴らせるということなのだろうか。ちなみに『國語の中に於ける漢語の研究』(山田孝雄著 寶文館 昭和15年)によれば、「いじめ」の語幹は「意地」らしい。いじめとは意地め。みんなでうらむと意地を共有することになり、いつの間にかいじめ側に回ってしまうのではないだろうか。

怒ってはいけない

 子供たちのいじめをなくすのが大人の義務とされたのだが、大人の世界にこそいじめや嫌がらせは蔓延(はびこ)っている。大人はそれらを英語を使って「ハラスメント(harassment)」と呼び、そう言い換えることで解決を図ろうとしているのである。
 振り返ると、1980年代にまず「セクシャル・ハラスメント」という言葉が登場した。男女雇用機会均等法の施行(1986年)もあり、女性たちの職業意識の高まりとともに、職場における「性的な嫌がらせ」が露呈するようになる。それらを「セクシャル・ハラスメント(略してセクハラ)」と呼ぶことによって、公式に「被害」化したのである。

それまで職場の上司や同僚に身体を触られて嫌な気持ちになったり、男性のわいせつな会話に不愉快な思いをしながらも、「それ」を的確に表現する言葉がなかったため、露骨に顕在化しなかった問題が、「セクシュアル・ハラスメント」なのだとして、一気に表面化したわけです。
(『弁護士が教えるセクハラこんなときどうなる』福島瑞穂監修 日本文芸社 平成11年)

 嫌な気持ちや不愉快な思いに苛まれていた女性たち。「セクシャル・ハラスメント」という言葉によって、ようやくその被害を訴え出られるようになった。積年のうらみを晴らす「ハラスメント」だったのである。
 このセクハラを皮切りに「ハラスメント」は次々と増殖していった。今では週刊誌(『週刊文春』2021年7月29日号 文藝春秋)を開いてみると、ひとつの見開きにこんな記事が並んでいる。

 「鈴木保奈美が我慢の限界だった 石橋貴明のモラハラ」
 「白鵬 パワハラ相撲が許されないこれだけの理由」

 夫である石橋貴明による「モラル・ハラスメント」と横綱白鵬による「パワー・ハラスメント」。ふたりが具体的に何をしたのかよくわからないのだが、どうやら妻を束縛する夫と横綱の地位を利用した強権的な相撲の取り口を批判しているようで、いずれも隠れていたいじめや嫌がらせを「ハラスメント」として暴露しているようなのである。今や週刊誌も注目するのはスキャンダルより「ハラスメント」なのだ。職場では部下が上司から「パワハラ(パワー・ハラスメント)」の被害を受ける。患者は医師から「ドクハラ(ドクター・ハラスメント)」、妊婦は「マタハラ(マタニティ・ハラスメント)」で、介護で休む人は「ケアハラ(ケア・ハラスメント)」に悩まされる。グローバル化に対応できないからと責められるのは「グロハラ(グローバル・ハラスメント)」で、飲酒を強要されるのは「アルハラ(アルコール・ハラスメント)」であり、体臭が強い人は本人が気がつかないうちに「スメハラ(スメル・ハラスメント)」をしてしまう恐れがある。うらみは相当根深いようで、「ハラスメント」はとめどない様相なのだ。
 さらに「ハラスメント」は細分化が進んでおり、同じ「セクハラ」でも、男女はこうあるべきだと言われるのは「ジェンダー・ハラスメント」であり、「ホモ」や「レズ」などと性的指向や性自認に関することで嫌がらせするのは「ソジ(Sexual orientation and gender identityの頭文字をとった略)ハラ」になるらしい。何がなんだかわからなくなりそうだが、「よくわかりません」などと言って、ハラスメントの相談に応じないと「セカンド・ハラスメント」になるそうで、ぼんやり生きているとそれだけでハラスメントになりそうなのである。
「怒ったらアウトです」
 そう嘆いたのは食品メーカーに勤務する市村さん(仮名)だった。勤続35年の彼は管理職に就いているのだが、職場では決して怒ってはいけないらしい。
――怒るとどうなるんでしょうか?
 私がたずねると、彼が即答した。
「だからパワハラですよ、パワハラ。パワハラになりかねないわけですよ」
――なりかねない?
「だってパワハラかどうかは受けた相手が決めることですから。こっちがどうこうっていう問題じゃないですからね」
 パワハラ(パワー・ハラスメント)を訴えるのは被害者。受けた被害のことを「パワハラ」というのである。実は「パワハラ」は法的に規定されている。令和2年に改正された「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」。その中で職場での「優越的な関係を背景とした言動に起因する問題」に対して、事業主は「必要な措置を講じなければならない」と定めている。この法律に基づいた指針で「パワーハラスメント」が次のように定義されているのだ。

職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって、業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、その雇用する労働者の就業環境が害されること
(「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」)

 微妙なのは「業務上必要かつ相当な範囲を超えた」という定義で、果たしてどの程度の言動なのだろうか。業務上必要といっても業務は千差万別だろうし、「相当な」は「釣り合う」とも解釈できるが、「かなりな」ということも意味する。そこで厚生労働省の作成したパンフレット(厚生労働省 都道府県労働局雇用環境・均等部(室) パンフレットNo.1令和2年2月作成 以下同)を見てみると、例えば次のような言動はパワハラに「該当すると考えられる例」と記されている。

・人格を否定するような言動を行う……
・業務の遂行に関する必要以上に長時間にわたる厳しい叱責を繰り返し行う
・他の労働者の面前における大声でも威圧的な叱責を繰り返し行う
・相手の能力を否定し、罵倒するような内容の電子メール等を当該相手を含む複数の労働者宛てに送信する

 基本的に「叱責する」とパワハラになる可能性が高い。「該当しないと考えられる例」によると、「注意をする」ならセーフとされているのだ。市村さんによれば「バカヤロウ!」「ふざけるな!」などの発言は人格否定になるので完全にアウト。「辞めてしまえ!」「帰れ!」も能力の否定になるのでアウト。怒ってしまうと「注意」のつもりが「叱責」になるのでアウトになりかねないとのこと。いずれにしても結果として「その雇用する労働者の就業環境が害されること」になった場合にパワハラだと裁定される。この「就業環境が害される」とは、その言動によって「労働者が身体的又は精神的に苦痛を与えられ、労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じること」だという。つまり叱責された人が精神的に苦痛を感じ、仕事がしにくくなればパワハラとなるのだ。

被害の多重性

「要するに相手が通報するんですよ」
 吐き捨てるように言う市村さん。
「ウチの会社の場合、『社長ホットライン』というのがありまして。匿名でメールも電話もできるんです。だからクレーマーっぽい若いヤツが通報する」
――クレーマーっぽいんですか?
「たとえそういうヤツでも通報を受けたら会社は調査しなきゃいけない。調査して処分もしなきゃいけないんです」
 確かに「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」はパワハラを禁じる法律ではなく、事業主に労働環境の整備を義務づける法律にすぎない。法律を遵守するにはパワハラの告発を受けつけ、調査や処分を行なわなくてはいけないのである。
――そのクレーマーっぽい若いヤツっていうのは……。
 私が言いかけると、彼は憮然と答えた。
「そいつは謝らないんです。ミスをしても絶対に謝らない」
――ミスを認めないっていうことですか?
「ミスを指摘すると『ここに100人いて100人が私を悪いと言うなら、悪いのかもしれません。でもそうでないなら私は悪くない』とかわけのわかんないことを言うんですよ。謝れと言っても、『私は悪くない』と絶対に認めない。本当に頭に来る。『ふざけんな!』と言いたい」
――そうですね。
「でも怒ったらアウト」
――どうするんですか?
「感情を抜く」
――抜くとは?
「だから理路整然と注意するわけですよ」
――例えば……。
「『ここはこういうルールになっていますね。ルールは守らないといけないんじゃないでしょうか』とか」
――一般論にするわけですね。
 人格や能力を否定せずに注意するとなると一般論にするしかないらしい。客観的に自分を見るという道徳的態度というべきか。しかし一般論では同意を得ることはあっても肝心の問題は解決しないだろう。
「結局は謝らないからね。それでまた同じミスをするんですよ」
――それは困りますね。
「私もついにキレてしまいまして。『ふざけるな!』と怒鳴っちゃって」
――怒っちゃったんですか?
「はい」
――それで?
「今のところ大丈夫です。でも常に気をつけていないと、いつどこで足を引っ張られるかわからない。いや、毎日頭で考えなきゃいけないんで本当に疲れますよ」
 聞けば、彼の会社ではこれまで数人がパワハラで解雇されたという。彼の周囲でも告発による降格や異動が頻繁にあるらしい。
「私なんかも定年が近いわけです。それこそ定年間際に解雇されたら退職金も出ません。降格や異動になったら、もう挽回できないんです」
 かしこまる市村さん。私はひたすら「そうですね」「大変ですね」と同情するばかりで、まるでパワハラの被害者の話を聞いているような気がした。そう、「パワハラ」には、パワハラを受けたという被害者と、「パワハラ」だと糾弾された被害者がいる。後者は「パワハラ」というハラスメントを受けているのだが、それをハラスメントと呼ぶと、当初の被害者にさらなるハラスメントを加えることになり、ハラスメントは幾重にも多重化していく。被害を明らかにするのが「ハラスメント」のはずだが、それは「被害」による被害という被害の多重性も照らし出してしまうようなのである。

「パワハラ」で元気になる

「その方の場合、やはり成功体験がもとになっているんじゃないでしょうか」
 市村さんのパワハラ被害を弁護士に相談してみると、彼女はそう指摘した。
――成功体験なんですか?
「おそらく彼は会社で怒鳴られてきた世代でしょう。『バカヤロウ!』『さっさと帰れ!』などと叱咤激励されて仕事を覚えてきたわけですよね。当時はパワハラなんて言葉もないですから、それは『頑張れ』という意味でした。それがうまく機能していたので同じことを部下に対してもしてしまうんです」
 聞けば、弁護士の世界にも「パワハラ」はあるという。新人が弁護士事務所に入ると、上司の弁護士から「何やってんだ!」と怒鳴られる。ミスをしたわけではなく、単に機嫌が悪くて怒鳴り散らす。セクハラに注意して女性とふたりきりになる時は必ずドアを開けておくような人でも、パワハラはしがちなのだそうだ。
「受ける側からすると愛のムチと解釈して耐えるしかないんです。でも、今は辞めてしまう人が増えていますね」
――耐えられないんですね?
「というか、今は終身雇用の時代じゃありませんから。若い人たちは会社に就職するというより、自分はこれができるというスキルを身につけたい。欧米のようなJOB型を目指しているんです。スキルを上げて成長したいわけですから、問題があるなら何が問題で何をどうすればいいのかときちんと指摘してほしい。『バカヤロウ!』などの人格否定は何の足しにもなりません」
――成長ですか……。
 私などからすると「バカヤロウ」で辞めるというのは、かえって心配になる。生きていれば必ずどこかで「バカヤロウ」などの罵倒を受ける可能性はあり、その度に辞めていると成長どころか生活する手立ても失ってしまうのではないだろうか。
「怒鳴られたりすると、『この会社、おかしくない?』『こんなヘンな会社にいていいのか?』と思うんです」
――パワハラ、ということですか?
「そうです。すぐに『この会社パワハラすごいよ』『ブラック企業だよ』とか言う。『パワハラ』という言葉は、そういうことを言いやすくしました。自分が悪いんじゃなくて相手が悪いと思いやすくなりました」
 今はSNSもある。理不尽な目に遭えば、彼らはすぐさまSNSに「ここパワハラすごい」「ブラック企業」などとアップする。それが拡散すれば会社の評判を落とすことになるわけで、会社側はそれを「リピュテーション・リスク」と呼び、リスクは避けなければならない。そのためにパワハラに対しては厳しい処分を下すことになるそうで、訴えられた人のほうが立場が弱いそうなのである。
――パワハラに遭ったという被害者からの相談もあるんでしょうか?
 あらためて私はたずねた。「パワハラ」だと訴えられる被害ばかりが目についてしまうのだが、本来のパワハラ被害の相談もあるだろう。
「もちろんあります。その場合は依頼人から『何があったのか?』『いつ誰に何を言われたのか?』と聞き取ります。証拠を揃えた上で法的な手続きに入るんです」
 法的な手続きとは、裁判で会社側に損害賠償を請求する。基本的に「ハラスメント」は民法に規定された「不法行為による損害賠償」の請求になるそうだ。

故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う(民法第709条)。

 権利や利益の侵害。今や「パワハラ」は法的に認められているので、訴えやすくなったのではないかと思えるが、実際は難しいらしい。
「裁判となると会社側は守りに入りますからね。訴えるほうは武器(証拠のこと)をしっかり揃えないと闘えません。相手の発言を録音する、日記をつける、手帳にメモする。いつ誰が何を言ったかという証拠類が必要なんです。嫌がらせのメールなんてすぐに削除したいでしょ。でもそれもきちんととっておく。嫌なものを保存しなきゃいけない」
 パワハラの苦痛は「平均的な労働者の感じ方」(前出『厚生労働省パンフレットNo.1』)が基準とされる。つまり証拠は一般的に苦痛を感じる内容でなければいけないのだ。
――それも大変ですね。
「確かに大変ですけど、攻撃材料がたまっていくのが楽しくなる人もいるんです」
――楽しくなるんですか?
「しめしめ、という感じで。日記もそれで埋まっていきますからね。武器が揃ってこれで闘えるぞ、と思うと元気も出てくるみたいで」
――元気になるんですか?
「はい。元気を取り戻して訴訟をやめる人もいるんです」
 これも「ハラスメント」の効用なのだろうか。証拠を集める、記録をつけるというのもうらみの晴らし方のひとつなのだろうか。
――ハラスメントとは一体、何なんでしょう……。
 私がつぶやくと、彼女はきっぱりとこう断言した。
「道徳的なことを法的レベルに格上げしたということです」
 いじめや嫌がらせは道徳レベルの話。それを「ハラスメント」と呼ぶことで法的レベルに格上げしたのだという。道徳の世界は曖昧だが、法の世界は明文化され、国家権力が伴うのである。考えてみれば、いじめの場合はいじめる人、いじめられる人という具合に行為の主体を振り分けられたが、「ハラスメント」は本質的に認定行為であり、その主体は認定者になる。となるとハラスメントする側もされる側も権力に服従するわけで、結局は両成敗ではないだろうか。そういえば市村さんもポツリとこう言っていた。
「社長だけは怒ってもいいんです。社長ホットラインで電話しても、出るのは社長ですから。僕も社長になれればよかったんです」
 権力を握ったほうが勝ち。パワハラとは、中途半端なパワーによる嫌がらせを露呈させ、より強大なパワーに従属するということなのだ。
 うっかり見落としていたのだが、いじめについても平成25年の「教育再生実行会議」の提言によって「いじめ防止対策推進法」が制定されていた。その第四条にはこう記されている。

  児童等は、いじめを行ってはならない。

 いじめは法律で禁じられていたのである。なぜいじめをしてはいけないのかと訊かれれば「法律で禁じられているから」と答えればよい。市村さんの言い方を借りるなら「日本ではそういうルールなので、ルールは守らないといけないんじゃないでしょうか」ということなのだ。いじめはすでに道徳の問題ではなく、刑法の世界に移されていた。人の悪口を言えば、名誉毀損罪か侮辱罪、叩いたり蹴ったりすれば暴行罪で、脅せば脅迫罪になり、嫌がることを無理やりさせれば強要罪に問われることになる。実際、「道徳」の教科書でもこう警告されている。

  遊びやじょうだんのつもりでしたことでも、法律では犯罪になることがあります。
          (『小学道徳 生きる力 6』日本文教出版 平成30年)

 いじめると逮捕される。実にパワフルな警告なのだが、これは問題の解決というより権力への依存にすぎず、世の中のうらみは晴れるより、かえって募るような気もする。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』など。近著に『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』がある。

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