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第1回

今昔嫁姑譚(こんじゃくよめしゅうとばなし)の段

震災で歪んだ友衛(ともえ)家の母屋を土台から建て替えるのに三年を要した。設計に時間をかけたこともあるし、人手や資材の不足もあって、着工までにだいぶ間もあいた。三年のうち半分は更地の隣で、半分は次第に形を成してゆく母屋の槌音を聞きながら、残った道場でそれぞれ稽古を続けていた。ようやく完成して二年半が経つ。

 耐震が一番だというからちょっとしたビルのようになるのかという公子(きみこ)の予想は外れ、懇意にしている棟梁が仕上げたのはこざっぱりした数寄屋風の建物だった。飲んだくれだが、いい仕事をする。

 玄関の格子戸を開けると今でもまだぷんと木の香りがする。そこからまっすぐ幅一間の畳廊下が通り、奥のほうで離れの稽古場とつながっている。

「わあ、どこかの家元みたいだね」

 完成後初めて足を踏み入れた次男は感嘆の声を上げたが、以前からこの家は一応〈坂東巴流(ばんどうともえりゅう)〉の家元なのである。

 家族の居住区を二階に移し、三階も足したおかげで、公子にも家元夫人に相応しい自室ができた。今、そこに畳紙(たとうし)を散乱させ、障子窓から注ぐ光の中、ぼんやりしている。

 新しくなった家へ戻ってきたのはずいぶん前なのに、戻れば戻ったですることが多く、自分の荷物の片付けは後回しだった。今も決して手が空いたわけではないが、来週招かれている門人の結婚式に何を着ていこうかと探し始めたら、いずれ整理しようと積まれている畳紙の束が気になったのだ。箪笥に入りきらず、この二年半ずっとそこに積まれていた。虫干しもせねばならないと、とりあえずひとつずつ開いて、そのつどこれは娘時代に誂えたものだ、これはお見合いの日に着ていたものだ、などと追憶に浸り、やがて収拾もつかぬままくたびれてしまった。半開きの畳紙一枚一枚の陰からさまざまな色が覗いている。 

 広げたままにもしておけないがと途方にくれていたところへ折よく嫁の佐保(さほ)がやってくる。何か用事があってやってきたのだろうが、このありさまを見ると、それを呑み込んで、お手伝いしましょうかと言った。

「ああ、ちょうどよかったわ。若い頃の着物が出てきたから、佐保さんにどうかと思って選り分けていたのよ。これなんかどうかしら」

 綸子(りんず)の色無地を指し示すと、ありがとうございますと微笑んでから、でもそれは眞由子(まゆこ)さんのほうが似合うのではと佐保は答える。鴇(とき)色という名がふさわしい若いピンク色だ。十代で友衛家の内弟子に入った佐保だったが、震災の後、長男遊馬(あすま)と結婚してそろそろ三十路になるのかなったのか、年齢を気にしてのことだろう。眞由子というのは次男行馬(いくま)の許嫁で、この春に大学を出たばかりだ。

「いいのよ、あの娘(こ)はきっと京都からどっさりいい着物を持ってくるんでしょうから、わたしのものなんか欲しがらないわ」

 友衛家よりはるかに大きな茶道流派の家元令嬢なのだ。地味な会社員を父に持つ佐保は俯いたままほのかに笑う。もしかしたら気にしたのかもしれない。この娘もまた京都育ちだ。

「それと、これね、小紋と訪問着。どこかに帯もあるはず。よければ全部洗いに出してあなたの寸法に直しておきますから」

 これまでも公子の着物を着せたことは何度かあったが、その度に裄も丈ももう少しあったほうがよいのだろうと感じていた。今どきの子は体格がよい。佐保も初めて会った頃は華奢な印象しかない少女だったのが、友衛家で武道に励み出してから心身ともにしっかりしてきた。

「これ、初めてお茶会でお点前したときに着せてもらいました」

「そうそう、暑い日だったわねぇ」

 夏に華展の添え釜を頼まれたことがあり、佐保にも点前をさせたのだった。薄茜の地に秋草を散らした絽小紋だ。

「やっぱりあなたにはこんな色がよく似合うのよ。さっきの色無地もとっておきなさい。お婆さんになっても大丈夫だわ」

 そうでしょうかと首をひねって色無地の畳紙をもう一度引き寄せる。

 遊馬と佐保は、まだこの母屋の工事が始まる前に式を挙げた。本人たちは家が落ち着いてからでよいと言ったけれども、その頃、家族はそれぞれ別の場所に仮寓していて公子の目も届かなかったから、特に遊馬は誰かにしっかり見張っていてほしかったのだ。彼はそれまでのアルバイトのような生活をやめて新しい仕事に就くところでもあった。

 近くの氏神神社で式を挙げて、披露宴には古武道各流派の代表やら警官やらが参列して物々しい景色だった。遊馬の父秀馬(ほつま)は家元を継ぐ前は警察官であったし、佐保は現職の皇宮護衛官だ。披露宴の余興は、もっぱら剣舞。式の前に宮司が鏑矢(かぶらや)を放ってくれたのが印象的だった。

 家を継ぐまではふたりで好きに暮らせばいいと近くのマンションをあてがったのに、こちらの母屋が完成すると、皆と一緒がよいと戻ってきてしまった。子どもの頃から窮屈で古風な家を嫌い、洋間に憧れ、自由を夢見て家出までした遊馬だったのに、いざ新妻とふたりマンション生活を始めてみるとどうもしっくりこないと感じたらしい。

「わたしも何か落ち着かなくて。地に足がつかないというか、おままごとしてるみたいで」

 佐保までそんなことを言い、結局元の木阿弥の三世代同居だ。先代の風馬(かざま)もまだ矍鑠(かくしゃく)としている。

「あ、これ、京都で着てはったのや。遊馬さんの通し矢のときですよね。あのときのお義母さん、めっちゃ綺麗で、眞由ちゃんなんか、行(いく)ちゃんのお母さん女優さんみたいぃ言うてました」

 よく覚えているものだ。香色(こういろ)の地に更紗紋様をあしらった訪問着は、公子自身好きで当時よく着ていた。

 結局、佐保もいちいちそんな具合に思い出を語るので、片付けはあまり捗らない。日も傾いてきた初秋のことだ。

「お義母さんも、こんなふうにお姑さんのお着物をいただいたんですか?」

 更紗の訪問着を撫でながら佐保が訊き、公子は困ったように宙を見る。姑の着物は、あらかた叔母や弟子たちが持っていった。

「まあ、わたしには小さかったし」

 正直に言えば、さほど欲しい着物はなかったのだ。姑とはだいぶ趣味が違った。

 公子が嫁いできたのは女子大を卒業して間もなくのことで同級生の中では一番早かった。在学中に縁談があり、親は数年花嫁修業などさせてからと言ったけれども、姑になる菊路(きくじ)が、修業したければうちですればよい、掃除も料理も茶の湯の内だ、来る気があるなら四の五の言わずにさっさと来たがいいでしょうと言い、公子自身も友人たちの中で花嫁一番乗りは悪くない気がした。それでも卒業後数ヵ月何やかや準備する間に料理教室くらいは通い、年末に式を挙げた。

 パリのシャンゼリゼでクリスマスを迎えるのが公子の夢で、新婚旅行の相談になったとき、おずおずとそう言ってはみたのだが、夫となる秀馬は腕組みをしてうーんと唸り、それは銀婚式くらいにしませんかと答えた。結局行き先は沖縄になり、海外でないのは少し寂しかったが、琉球古武術の道場を訪ねる夫の背中はたのもしくも見えたから、それはそれで正解だったのかもしれない。友衛家は茶の湯と古武術を伝える家だ。

「そしたら、銀婚式はパリに?」

「行ってないわよ、今の今まで忘れてたもの」

 近くにあった綴(つづれ)の帯を膝の上にぱんとのせる。

 結婚記念日は、年末の慌ただしさの中で当人たちさえ忘れてしまうのが毎年のことだ。そういえば銀婚式は何年前だったのだろう。

「パリのクリスマスでないなら、何も年末でなくてもよかったのよね。新婚旅行だって、帰ってくるなり怒濤のお正月準備で余韻も何もなかったし。なんだってあんな時期にしたのかしら」

 年始廻りと嫁の紹介が一度に済んで手間が省けると菊路が笑っていたことだけ覚えている。

「無駄の嫌いなひとだったから。まどろこしいのは大嫌い、そしてとにかく早起き。あれには泣かされたわ」

 旅行から戻った日は疲れただろうから早く寝(やす)めと言われたものの、初めて婚家で過ごす夜に緊張して明け方まで寝られず、当然のように翌朝は寝坊した。身支度を整えた頃には家中の掃除も洗濯も済んで朝餉(あさげ)の支度が整っていた。すみませんと小さくなって謝って、翌朝は早起きしたつもりだったのに、前日と大差なく台所でトントンと包丁の音がしていた。どうして起こしてくれないのかと夫にあたり、それが初めての夫婦喧嘩だ。翌朝はもっと早い時刻に目覚ましをセットしたけれども、結局、どれほど早起きしてもすでに誰かが起きて湯を沸かしている。そういう家だ。男性たちは道場でひと汗かいていたりもした。

「誰も夜寝ないのかしらと思ったわ。そしてあのお膳でしょ。時代劇みたいな」

 友衛家の朝餉は茶室に高脚の膳を並べてとる。当然、和食だ。

「驚くことばかりよ。カンナさんのこともそう」

 妹がいるとは聞いていなかったのに、やけに馬鹿丁寧な挨拶をする小娘がいて、あれやこれや世話を焼いてくれた。聞けば、住み込んでいる番頭弥一(やいち)の孫だという。親を亡くしてこの家を頼ってきたのが公子の嫁ぐ少し前だった。

「まだ子供なのに、弥一さんに躾けられているから、何を言われても、はい! はい! って模範的なお弟子さんで、キビキビ動くでしょう。お義母さまのお気に入りでね。ちょっと妬けたわ。並んでいるとなんだか自分が木偶の坊に思えてくるし」

 姑の菊路は、言葉は多少荒いがさばさばとしたひとではあった。女性ながら小兵(こひょう)の力士にも似た存在感があり薙刀を構えればその気迫で男性をも圧倒した。家事などは何でもちゃっちゃとこなして、その上で夫を助け流派を支えてもいた。具体的に言えば、〈坂東巴流〉の門戸を女性に開くためさまざまな面で尽力した。

 だから公子にも厳しかったかと言えば、実はそうでもない。むしろ、自分の元気なうちは用は足りているから無理する必要はないと言った。低血圧を押して早起きするには及ばない。おっとりしたお嬢様なところがあなたの取り柄なのだからと高らかに笑った。

 そう言われて、はいそうですかとのんびり寝ていられれば苦労はないが、あいにく公子はそこまでおっとりしているつもりはない。女子大では何でもひとよりできて、どちらかと言えばリーダーになるタイプだった。こんなところで〈使えない嫁〉扱いされるのは耐えがたい。とにかく若かったので、〈できる嫁〉にならねばとしゃにむに頑張って、毎朝、鰺や鰯を焼いた。

「まぁねぇ、ときどき、パンと珈琲の朝食を夢に見ることはあったわ。匂いつきの夢」

 三十年以上も昔のことだが、その夢は覚えている。実家の朝食がよほど恋しかったらしい。

 東京と京都ほどではないにしろ、公子の実家と友衛家では気風がかなり違った。都内でも西と東の違いというのか、山の手と下町、あるいは商家と武家の違いかもしれない。

 菊路は気取ったことが嫌いで化粧も滅多にせず、どこへでもすっぴんで出かけた。嫁の公子が化粧しているのを見ると、ああ、もったいないと眉を八の字にする。化粧代のことではない。まだ若くすべすべした肌を妙なもので塗り隠すのがもったいないと言うのだ。けれど公子のほうは化粧したい盛りだった。

 また、菊路の普段着は着物だったのでそれに倣おうと思っても、木綿や紬ばかり着る姑の前で自分の着物は出しづらかった。親が持たせてくれたのは華やかな色目の柔らかものばかりだ。お茶席ではそれしか着ないと教わってもいた。が、菊路は家の中にいるかぎりは茶室でも堅(かた)ものだった。どうかすると袴もつけず襷掛けだけしてそのまま薙刀を振るったりもした。同じ着物で台所にも道場にも立つのだからこれには驚いた。

「たいていは綿や麻のお着物ね。家でじゃぶじゃぶお洗濯してらした。紬は、結城や大島。大島といっても、村山大島って、東京で織られていたものが手頃で着やすかったみたい。お呼ばれの茶会用はほんの数枚だったわね。ご自分のことにはほんとに始末屋で。娘時代は派手な銘仙も着てらしたらしいけど、亡くなったあと探しても見あたらなくて。どうやらみんな解いてお布団にしたようなの」

 結局、公子は何を着るのが嫁としてふさわしいのかわからず、早々に諦めて、茶室以外では洋服でいることにした。家元継嗣の嫁としてどうなんだという声もあったが、裸でいるわけじゃなしと、菊路は意に介さなかった。

「気さくな方だったんですね」

「ええ、ええ、そうね。気さくすぎるくらいだったかも」

 公子には姑に対してひとつ屈託がある。

「お義母さまは、最初わたしのことを公ちゃんって呼んでくれたのよね。親しみを込めてでしょうけど、どうにもわたしは馴染めなくて。お互いにまだよく知りもしないのに、いきなり公ちゃん」

 実家では親からもさん付けで呼ばれていた。郷に入れば郷に従えと諭されていたから、嫌だと言ったことはない。言いはしないが、多分そう呼ばれるたびにむずかるような態度を示したのだろう、いつしか菊路は「公子さん」と呼ぶようになった。そのときから互いの間に距離はできた気がする。ほんの一メートルくらいのものだが、最後まで消えなかった。公子が作ってしまった距離だ。

 佐保は相槌の打ち方がわからないようで、膝の上の畳紙をただ見つめている。

「あなたはどう? 佐保ちゃんのほうがよかった?」

「いえ、わたしは内弟子からだったので、そんなふうに呼ばれたらきっと甘えが出てしまったと思います。あ、えーと、充分甘えてましたけれども」

 そんなことはない。二十歳になるやならずで内弟子となり、大学へもここから通った佐保は、生真面目で自分に厳しい娘だった。常に遠慮がちなところは、こちらが歯痒くなるほどで、甘えさせようとしても命令口調で言ってやらねばお願いしますと言ってこない。ひとり黙々と稽古するひたむきさには幾度となく心打たれることがあった。

「きちんと三道のお稽古をして、その上、立派なお仕事もして、偉いわ」

 そんな、そんな、と首を横に振りながら、佐保は少し遠くにあった紅型(びんがた)の帯に手を伸ばす。

〈坂東巴流〉の茶の湯と古武術とは、わかりやすく言えば武家茶道、弓道、剣道の三道だ。とはいえその全てを修めるのは容易なことではない。公子自身、当代家元夫人でありながら武道のほうはさっぱりで、そのことを親戚筋から責められることもあった。

「わたしもね、基本くらいは教わったのよ」

 新婚時代、夫から手取り足取り指導されたのはくすぐったいような思い出だ。もともと〈坂東巴流〉は女性の弟子を取らなかった。嫁に来るにあたっても茶道はともかく武道をたしなめというような話はなかった。ただ、これからは女子にも門戸を開こうと姑たちが奮闘している最中にあって、我関せずと茶ばかり点てているのはいささか気がひけもした。それで、わたしにもできますかと訊いたら、夫は笑って少し指南してくれたのだ。

「でも、倒れてしまって」

「いきなりそんな厳しいお稽古を?」

 公子は恥ずかしそうに首を傾げる。竹刀の握り方を教わって、数度振ってみたくらいのことだ。しかしその頃、家事のこと流儀のこと、親戚付き合いや近所付き合いなどなど知るべきことが山ほどあり、早朝から深夜まで気を張っていた上に、お嬢様育ちの役立たずと思われたくないばかりに姑やカンナと競うように働いて心身ともに困憊していた。

「度を超していたみたいね。お義母さまにも呆れられてしまって。誰も倒れるまで働けとは言ってないだろう、外聞が悪いって」

 そのとき菊路は少し考え、公子に経理関係を任せてみることにした。頼みもしないのに無理に早起きをして、頼みもしないのに危なかしく竹刀を振る。心意気は買うがそんな無駄な努力で倒れられては迷惑だ。何か別の仕事を与えておけば、頭がそちらに向くだろう。ちょうど友衛家の者はみな金勘定が苦手だった。

「実家の父が銀行員でしょ。その娘なら得意だろうというわけよ。わたしだってどちらかといえば文系で、計算が得意なわけではなかったのだけど」

 それでも家の財布を預けるというのは信頼の証だから、お任せくださいと公子は胸を叩いてみせた。

「なのにねぇ、これも大失敗。粉飾決算がバレてしまって」

 佐保が帯を畳む手を止めて、え? と顔を上げる。

 さほど裕福でないということは、婚約前からさんざん聞かされていたけれども、家計を預かってみてなるほどと思った。出て行くものが多い割には収入が少ない。油断するとすぐに赤字になる。赤字はよくないと思ったので、その都度自分の貯金で補った。足りなかったらあるところから持ってくればいい。きっとそのために自分が担当になったのだとさえ思っていた。

 やけに贅沢な食事が続き、誰かが「破産しないか」と冗談を言った翌日、菊路は家計簿を見てそのことに気がついた。

「馬鹿か、あんたは! って怒られたの。みくびってもらっちゃ困る、うちは嫁の財産なんか当てにしてやしない、頼んだのは、やりくりだって。落ち込んだわぁ」

 あんた呼ばわりされたのもショックだったし、貯金を差し出したのに叱られては割に合わないと悔しかったのは事実だが、今こうして話していると自分の愚かさが笑い話のようだ。

「これだからお嬢様は、ってため息をつかれてしまって……」

 しかしその一方で、簡潔にまとめられた家計簿には感心された。わかればいい、今度からどうしても足りないときはわたしに言っとくれと納めたあとで、新たに頼みがあると古い門人の名簿が手渡された。手書きの古い名簿は消されたり修正されたり判読も難しくなっており、どこにどんな門人がいるのかわからないありさまだった。これを整理してくれと言うのだ。

「お義母さまはお茶のお点前も女性用に改めて、少しずつ女性のお弟子さんを増やしたいと考えてらしたから、古い方々にその旨ご案内状を出したりね。ついでに門人会の組織もきちんとして」

 門人組織〈三道会〉の代表は菊路だったが、実務はみな公子が受け持つようになった。そうして段々に公子の居場所ができた。菊路について流儀の茶を習い、ともに女性の門人を集める努力をし、そうこうするうちに遊馬が生まれた。とにもかくにも男の子を産んだというので誉められて、育児に奮闘する姿に誰も非難がましいことは言わなくなった。お嬢様扱いされていたのが、晴れて若奥様になったというところだ。

 公子は話しながら立ち上がって、来週着ようと決めた着物や帯を衣桁(いこう)に掛けている。

「お幾つのときですか?」

「遊馬を産んだのが? 二十四だったかしら」

「ですよね……」

「この帯もいいでしょう。本小石丸」

〈小石丸〉 とは、皇后陛下が育てていることでも有名な日本原産の蚕だ。その糸だけを使って織られた帯が白く柔らかな光沢を放っている。

「素敵です」

 と言うわりには声が沈んでいて何か気になる。

「どうかした?」

 そういえば昨日、演武会の相談だと叔母が訪ねてきていた。公子が若かった頃、何かと意見してきた親戚とはこのひとだ。

「もしかして、子供のこと?」 

 表情からするに図星らしい。公子も昨日、孫はまだかと訊かれてムッとしたところだ。

「気にすることないわよ。結婚してまだ三年でしょ」

 言いながら帯揚げと帯締めを帯にあてがってみる。

「五年目です」

「あら」

「そろそろできないといけないって……。うちの親にもよく言われるんです。早く孫の顔が見たいとか。お義母さんもきっとそうですよね?」

「そ、そうねぇ」

 公子はぼかしの帯揚げと唐組(からぐみ)の帯締めを握ったまま、佐保のそばに膝をつく。

「もし育児のお手伝いにアテにされてるなら、それはまだ体力のあるうちにお願いしたいとは思うけど。年とって子供の相手はきつそうだもの。でもまだ大丈夫よ、きっと。わたしもまだ若いし、あなただってまだまだ」

「もう三十です。お義母さんが三十歳のとき、遊馬さんはもう小学生だったんですよね」

「結婚したのが早かったからよ。お友達にはもっと遅くにやっと授かったというひともいるし、子供がいないひともいるわ。いろいろよ」

「でも、この家には跡継ぎが必要ですよね」

 と思いつめた様子なので公子は驚いた。まだそんなことを悩む齢ではないだろうに、佐保は嫁の責務を果たせなかったらと不安がっている。

 似たような悩みを耳にしたことはある。子供がなかなかできないとか、親に責められて辛いとか、嘆く友人は身近にもいた。けれど公子自身は早くに長男を得ていたので、本当には彼女らの苦をわかっていなかった気もする。今だって、昨日叔母に言われてムッとしたのでなかったら「そろそろね」くらいは悪気なく口にしてしまったかもしれない。叔母に感謝したいくらいだ。

「佐保さん」

 公子はあらためて座り直すと、帯揚げも帯締めもとりあえず脇へ置いて、膝の上に両手を重ねる。

「もちろん孫ができたらわたしも嬉しいわよ。カンナさんの子供でさえあんなにかわいいのだから、遊馬と佐保さんの子供だったらどれほどかと思うわ。でも、それがずっと先でも問題はないし、ひょっとしてできなかったとしても、それはそれよ。みくびらないでね。孫を産んでもらうためにあなたをお嫁さんに望んだわけじゃないの。遊馬の人生にはあなたが必要だと思うからなのよ。優しくてしっかりしていて可愛らしい。もう充分にいいお嫁さんですよ」

 何より感心するのは、遊馬を想ってくれるその一途さだ。遊馬の嫁佐保も、行馬の許嫁眞由子も、大人がたじろぐほど一途に彼らを慕ってくれる。母から見れば危なかしく時にはどうしようもない息子たちだが、そんな彼らを誰より大事と思ってくれるなら、親としてはそれ以上何も言うことはない。

「遊馬に訊いてご覧なさいよ。男の子ができたら、ああ、よかった、跡継ぎにしようと単純に思うのかしら。自分があれだけごねたんですからね。跡継ぎについては誰より深く考えているはずでしょ」

 佐保ははっとしたように顔を上げる。たしかに遊馬は、長男だから跡を継げと言われると反発し、家を出て、京都くんだりをさまよっていた。佐保が出会ったのはそんな彼だったのだ。

「馬鹿ねぇ、焦りすぎだわよ」

 そのとき、ふと公子は思った。自分が嫁いできたばかりの頃、眠ければ寝ていろと言った菊路の言葉はつっけんどんではあったけれど、突き放した言い方ではなかった。焦って無理をする嫁を思いやってくれただけと今ならばわかる。お嬢様扱いされたのも冗談や皮肉ではなく、自分にはない性質と尊んでくれたのかもしれない。肩肘張らず、もっとぼんやりしていてもよかったのだ。自分では決して口ごたえしない素直な嫁でいたつもりでも、公子の中にどこか尖ったところがあって、菊路はそれを扱いかねていた。気さくに振る舞いながらも、幼いカンナに対するのとは違って嫁にはわずかに遠慮があった。公子の側にもあった。あってしかるべき間合いに思えたから、あえて距離を詰めようとはしなかったけれど、しかし不思議なことに、今思い出して一番愉快な記憶は、「馬鹿か、あんたは!」と一喝されたその一瞬なのだ。とても悔しかったはずなのに、思い出すと嬉しくて笑えてくる。

 馴れ合うことなく一歩引いて嫁を見ていた菊路が急に厳しいことを言い始めたのは行馬が一、二歳の頃だった。後から思えば、わが身が癌にむしばまれていると気づいたのがその頃なのだろう。「わたしの元気なうちは」と言っておれなくなった。

 志は半ばで女性門人はまだわずかだったから、後を託すように茶事全般を公子に叩き込んだ。

「今から弓や竹刀を握れとは言わない。公子さんは茶の湯の道を一心に極めるんだ。そうしたらいつか、武人と同じ景色が見える。〈坂東巴流〉という山を、どこから登るかということでしかないんだからね。どこから登ってもいつか道は交わり、交わったところは頂上だよ」

 そう言ったときにはもう床(とこ)から起き上がれなくなっていた。亡くなったのは還暦を迎えてまもなくだ。

 気づいてみれば、公子が若い嫁だったように菊路も若い姑だった。公子がよい嫁になろうと必死だったように、菊路もまたよい姑になろうと手探りしていたはずだ。もう少し時間があったなら、同志として実の母娘(おやこ)以上の仲になれた気もする。

「わたしも一枚くらいもらっておけばよかったかしら。お義母さまの着物」

 隣の寺で鐘が鳴り、お夕飯どうしましょうと佐保が立ち上がる。ここへ来たのは、その相談だったようだ。

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